第[章


 長かった冬が終わり、王国に春が訪れる。昼夜を問わず凍りついていた噴水は、一週間ほど前から朝の光で解けるようになり、昼を迎える頃にはどんなに冷え込んでいてもきらきらと水を巡らせている。キィークルル、とオオユキギリの群れが飛ぶ影が、そこに映った。灰を帯びた茶色の羽根が一枚、足元に落ちてくる。
「エイル」
 拾い上げて、それをまた風に放した背中に、中庭へ出てきたイースが声をかけた。アイボリーのドレスの裾が、雪の所々解けて覗いた芝生の緑の上でふわりと広がる。胸の高さで切り揃えられた癖のない黒髪が、空と水面、両方からの光を受けて艶やかに輝いた。片方を耳へかけ、インクブルーの眸がふっと和らぐ。
「イース、どうしたの。こんな朝早くに」
「それはこっちの台詞だ。クローネが、朝の仕度に行ったらまたお前がいないと探し回っていてな。多分外だろうと思ったから、散歩がてら探しに来たんだ」
「さすがね、すぐに見つかっちゃった」
「褒めて誤魔化すんじゃない。まったく、後でクローネに心配をかけたことくらい、謝っておけよ」
「分かっているわ、大丈夫よ。それにクローネだって、本当に気づいていないわけではなさそうだもの」
 鳶色の髪に、クラレットの眸。自分とは正反対の、温かみのある印象を与える青年を見上げて、エイルはそう微笑んだ。同時にクローネと呼ばれた、長い三つ編みを垂らした馴染みのメイドの姿が脳裏に浮かんでくる。自国の王宮で暮らしていたときと同様、慣れないはずのこの国にやってきても時々ふらりと一人で出歩くエイルのことを、誰よりも心配し、陰から見守ってくれている四つ年上のメイドだ。エイルにとっては友人であり、この王宮での姉のような存在でもある。
 エイルの行く場所は、大体決まっているのだ。彼女が迎えに来ないのはそれを理解しているからで、本当に居所が分からなければ、今頃もっと騒ぎになっている。分かった上でこうしてイースを迎えに寄越すのだから、クローネも案外、仕事に忠実なメイドである。そろそろ朝食の用意される時間なのだ。イースに部屋へ戻ろうと言われれば、エイルが断らないことを彼女は知っている。
「セラが、もう目を覚ますぞ」
「……そうね」
「母親の姿が見えないと、また大泣きをして、メイドに笑われてしまう。戻ろう、お前も風邪を引いたら困るだろう」
 そしてイースもまた、自分よりエイルを連れ戻せる名前をよく知っている。第一王女セラ。去年の秋の中頃に生まれた、エイルの娘だ。予定より少し遅れた出産のおかげで、挙式から一年と経たないうちの出来事ではあったが、公にはそれほど詮索もされず、祝いの言葉に恵まれて過ごしている。
 エイル譲りの青い眸と、イース譲りの鳶色の髪を持つ女の子だった。やや人見知りをするところがあるのは、自分から継いでしまったのだろうか、とエイルは思う。簡単な言葉を覚えてよく喋るようになり、父親と母親の前では快活な一面を見せるが、自分たちのどちらかの姿が見えないと途端に泣き出してメイドたちを慌てさせる。
「ほら、行こう。またこんなに手を冷やして」
 キィークルル、とまた響いたオオユキギリの声に、空を見上げたエイルの手を取り、イースは王宮へと歩き出した。薄氷のように淡い色の空を、三角に並んだ数羽の影が飛んでいく。あちらは北だ。王国にも、本格的な春が近いということだろう。厳しい季節ばかりを渡る、オオユキギリはいつも、寒いほうを目指して飛び立ってしまう。
「ええ。イース」
「ん?」
「おはよう。……そういえばまだ、言っていなかったんじゃないかしら、って」
 歩き出したエイルの言葉に、イースは思わず彼女を振り返り、おはようと笑った。また前を向いて、雪の残る芝生の上を歩いていく。焼かれたばかりのパンの香りが、王宮からは漂っていた。その扉へ足を進めながら、エイルは一度、北を向いて眩しさに瞬きをする。
 氷に覆われた白の塔が、広い庭を跨いで遠くに聳えていた。王宮の敷地内の最北端に、あの朝から変わらず、夏を越えても一年が過ぎても、氷に包まれたままでそこにある。
 お腹に子供がいる、とたった一度、廻廊で出会って初めて話したのを最後に、タガンは白の塔へ行ったきり戻らなくなった。あのとき、塔に何が起こって氷に包まれてしまったのか、エイルには分からない。ただ、タガンが何かを行ったのだということだけは確信がついた。恐らくそれが、あのとき彼の口にしていた、「有るものを壊す」という言葉に関係する行いであったのだろうということも。予測はついているが、では結果としてあの塔は、彼の望みが叶えられたことを証明する姿なのかどうか。それはまた、エイルのみならず、この王国の誰にも分からないままである。
 あの冬の朝に白の塔が凍りつき、廻廊を壊して王宮と隔絶されてから今日までの一年と少し、王宮は様々な手立てをもって氷を溶かそうと試みた。雨を待ち、火を焚き、あるいは剣で砕いたり、大砲で扉を撃ち破ろうとしたりした。
 だが、すべてが無駄に終わった。白の塔を覆った氷は未知の金属のように硬く、王国の技術では、どんな力をもってしても傷一つつけることがかなわなかったのだ。初めは爆弾を放ってもいいとさえ言っていたメイオールも、次第にそのすべてを跳ね返し、拒絶する塔の姿に、新たな策を講じる気をなくしてしまった。今ではまるで、数百年も前からその姿であり続けていたかのように、皆がそこにそうして立っている塔について触れることを諦めている。外套を羽織った黒髪の騎士と、わずか数名のメイドだけが時折、塔の中に消えた二人の名を、亡霊の名でも確かめるように口にしているのを聞くばかりだ。
 忘却の王女、ユリアと、記憶の騎士、タガン。今となっては唯一の扉も氷の向こうに閉ざされて、二人がどうなったのかを知る者はおらず、今後も自分たちに、それを知れる日は訪れないのだろう。塔は完全に絶たれた。忘却と記憶は、眠りに就いたのか生きているのか、それさえも分からない。二つの事象は、この国にありながら王宮との繋がりを捨て、長い永い沈黙を選んだようにも思えた。人の手では到底掴むことのできない、透明すぎる静寂の中へ。はてしのない透明の中へ、いってしまった。そんな気がした。


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