第Z章


「――ユリア」
 鍵を開けて、扉を引くと、塔の内部には光が斜めに差し込む。パキン、と踏んだら音を立てる薄いガラスのようなそれを踏んで、タガンは室内へ足を入れ、扉を閉めた。外で話している間に、目を覚ましていたらしい。寝台の上に腰かけたまま、ユリアが呼び声に首を振り向かせる。
「おはよう」
 丸まっている毛布を退かして、隣へ腰を下ろす。冬の空気に冷え切った手を、細い指が捕らえて遊ぶように絡んだ。冷たさが不思議なのか、黙って見ているといつまでもそうしていそうだ。毛布に包まれていた指の温度が段々と移ってきて、手のひらが温かくなる。
「雪が積もっていたんだよ。ああ、少し持ってくればよかったかな。去年みたいに」
「……」
「でも、君はあまり雪を触りたがらなかったからね。冷たいから? でも、僕の手は触るね。白いだけだと、何だかよく分からないのかな」
「……」
「ああ、でもクリームの乗ったケーキは好きだったじゃないか。覚えている? 今年のリシェが作った華やかなやつじゃなくて、去年の。僕が急遽用意して、アドと三人で、ここで食べた」
「……」
「うん、何。それは、カフスだよ。金属みたいだから、冷たくなってるだろう……」
 いつものように話しながら、何の気なしに握り返した手の。体温が同じだということが、タガンの言葉を、ふと区切らせた。冷たくなった自分の手をずっと触っていたせいで、すっかり熱が奪われて、どちらの手もあまり温かいとは言えない。
 ローズダストが一房、ユリアの肩をはらりと零れる。繋いでいた手を、タガンが引いたのだ。声も上げずに引かれるがまま、ユリアは倒れかかった。胸に広がったその髪を撫でて、タガンは掠れるような声で、ぽつりとこぼす。
「ねえ、ユリア。少し、話をしたいんだ。君と」
 まるで、秘密の話を始めたように。その声は自然と潜められ、しんと物音のなくなった部屋の中が、聞き耳を立てているかのような錯覚に陥る。タガンは少しずつ、ユリアを抱き締めた腕に力を込めた。なだらかな背に当てた手を、あやすように離したり触れたりする。
「些細なことでいいんだよ。さっき、僕が話したみたいに。例えば、今君が見ているものや、聞いているものや、昨夜の夢だ。僕が普段、話すようなことを、たまには君から聞いてみたい」
「……」
「君は、そう思ったことはない? 不思議に感じたことはないのかな。君の耳に、今聞こえているのは、言葉といってね。本当は全部、意味があるんだ」
「……」
「赤ん坊の頃から、一つ一つ、覚えてきたものなんだよ。君に話しているこの言葉は、僕が、十九年かけて使えるようになったものなんだ」
 はらり、はらり。指を通すたびに、いつかと同じ花の香りが漂う。甘く、決して主張の弱い香りではないのに、どこか儚い。忘却の花の香りに、口づけをした。
「――君にそれを、あげたいと思う」
 戸惑うように首筋を離れた唇を、今度は迷わず、ユリアの唇と重ねた。何が起こっているのか、分かっていないのだろう。ユリアは抵抗もせず、グレイの眸を瞬かせて、目の前に迫ったタガンの眸を見ていた。受け入れるでもなく、否定するでもない、一方的な口づけだ。
 だが、例えそんなものでも、心臓の裏側で燻っている本能に油を注ぐ。
「……っ」
 理性と混じり合い、すっかり冷やされて銀色に固まっていた記憶の力が、忘却を目の前にして本来の姿を取り戻す。声のない叫びを上げ、今だとばかりに心臓の裏から思い切り手を伸ばした。重ねた唇から、抱き寄せた身体から、触れている指の先から、タガンの身を抜け出して、ユリアの中に潜む忘却へ雪崩れ込もうとする。その感覚に、ユリアが初めて息を呑むような反応をした。かすかな声が、声にならずに呼吸を上擦らせて消える。
 ――形の有るものを壊す方法は、多分、とても簡単だ。
 ずっと抑え続けてきた記憶の力から、タガンはそうしてほとんど手を離した。破壊衝動のようだとさえ感じた、忘却を求め、侵蝕するようにぶつかりあおうとするあのエネルギーが、最初で最後の理性という蓋をなくして瞬時に膨張する。それは今までどうして従えていられたのだろうと疑問に思うほど、一瞬でタガンの身の内にあるものを焼き尽くし、まさしく器として支配した。
 荒れ狂いながら、ユリアの中へと抜け出していく。タガンはそれに、唇を合わせたまま、かすかに笑った。
 ――この身体を明け渡して、自由にして。我を失くして溢れたところを、二つに分断させてしまえばいい。
 瞬間、鼓膜を破られたかと思うような轟音が響き渡った。心臓が鼓動を奔らせながら、踊る炎に呑み込まれて焼失する。それが、タガンの中に残っていた最後の器官だったようだ。空っぽになった身体の芯を、火柱が立ったように激情が突き抜けた。目の奥が、焼けるように熱い。意識がぼろぼろと、灰になって千切れていくのを何とか繋ぎ止める。
「――――」
 タガンはとてつもなく多くのものが、自分の中から溢れ出していくのを感じていた。ずっと、それを抑えることに必死になってきたのだ。一度溢れてしまったら、二度と元には戻らないことを知っていた。記憶もまた、それを分かっていた。だからこそ、タガンのかけた理性という枷に大人しくかかり、これまで静けさを保ってきたのだ。
 その理性が、今、自ら本能に加担した。均衡は崩れ去り、タガンの中にあったタガンという人間の意思が唐突に身を引いたことで、記憶の力は不意に膨れ上がり、もはやタガンに宿っているということさえも忘れて暴走している。
 記憶は、ついに忘却と触れ合った。電気の流れるような拒絶をものともしない歓喜が、タガンの中を一層強く焼き尽くしていく。死なないと、最後に誰かと話した気がしたが、思考はもはや散り散りになって、それが誰だったのか思い出せなかった。農園で働いていた頃の自分の面影が、瞼の裏に立つ。
 途絶えようとしていく意識の中で、タガンはきつく、ユリアの手を握り締めた。


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