第Y章


 ずっと、考えていたことだったのだ。いつかユリアの命の期限が明確になったとき、自分はそれを数えて過ごすのか、どうするのか。いつからともなく、見送るという選択肢しか許されていないはずなのに、そんなことを考えるようになった。期限は思いのほか早くに迫ってきていたようだが、おかげでようやく、答えを出すこともできた。
「抗うのですね。でも、どうやって?」
「……エイル様。止めないんですか、貴方は」
「はい。誰にだって、無条件で選び取ってしまうものはある。そう思いますから」
「……」
「恨みません、どんな結果になったとしても。私たちは独断でこの子を授かって、それがユリア様に関わることは分かっていたけれど、貴方に許可など取らなかった。止める権利は、ないと思っています。そして、止めるつもりも」
「……なぜ」
「だって、どのみちこのままでは、この子は無事に生まれても幸福とは程遠い人生を歩みます。それがもう、見えているから。変わる可能性があるのなら、私は貴方を止めようとは思えません」
 エイルは迷いの見えない目をして、そう答えた。インクブルーの双眸の奥に、本当はどれだけの葛藤があるだろう、と思う。母でないタガンには、それを推し量ることは不可能だ。ただ、きっと荒れ狂うような胸の内を抑えて、こうして言葉を交わしている。
 エイルと話していると、最後の最後に、自分が人間であったことを思い出せている気がした。記憶の力との同化が始まってから、少しずつ剥がれ落ちていったものを、エイルはすべて持っている。誰かのために気持ちを押し殺す優しさであったり、目前のものに必死になるあまり、無意識に何かを犠牲にしてしまう愚かさであったり。美しいものばかりではないのに、エイルは純粋で、どこまでも美しく見えた。彼女と話していると、農園で過ごした日々が頭を過ぎる。
「……《私は時々、忘却は記憶よりも硬く、壊れにくいのではないか、と考える。忘却は無だ。有るものはその形を壊せるが、無いものは誰にも壊せない》」
「誰かの言葉ですか?」
「ロラン・バルドという、かつてこの王国にいた、記憶の騎士の遺した言葉です。確かに、そこに無いものは誰にも壊せない」
「ええ」
「でも、有るものを壊すことができたら。《有》が崩れたら、その影響が、対称の存在である《無》にも及ぶということはないのでしょうか」
 耳慣れない人物の言葉を引用して何かを考え込み始めたタガンに、エイルはそっと首を傾げた。忘却は、無。無いものである。無いものは、壊せない。ならばその反対の、有るものとは。
「忘却だけを、王女の中から追い出すのは無理なのかもしれない。彼女も僕と同じで、忘却の力と本人の精神とが、同化してしまっている可能性があります。それを引き離すことは、たぶん不可能でしょう。でも」
「タガン様、まさか……」
「……対である、僕が。僕の中にある、記憶の力が壊れたら? 僕とユリアの中で、壊せるものはそれしかありません。無には変化を起こすことができない。それならば、有るものが壊れて、衝撃を与えるしか方法はないのかもしれない」
「……っ、ですが!」
「死にませんよ。きっと、想像しているより本当はずっと簡単なことです」
 記憶の力を、壊す。有るものを壊すといったタガンの発言の真意に気づいたエイルが、その顔を青ざめさせた。最悪の想像をしているらしい彼女にそれを否定し、タガンは後ろに聳えた白の塔の扉を見つめる。物理的に、この身体をどうにかするわけではない。それでは意味がないのだ。もっと、本質から、記憶の力を分断させる。
 反発し、求め合う。その本能が持つ力を利用して。
「エイル様、そろそろ兵士が起きてきます。部屋へお戻りになったほうが、よろしいかと」
「でも、貴方はどうするのですか」
「白の塔へ行って、選んだ答えを全うします」
「ですから、それはどういう……っ」
「エイル様」
 歩き出そうとするタガンを、エイルが駆けて追いかけようとする。その腕を掴んで、その場に留め、タガンは少し考えてから、諭すように穏やかな口調で言った。
「イース様が、お待ちですよ」
「え……?」
「貴方は、僕がユリアを選ぶのと同じくらいの気持ちで、イース様と結婚することを、そのお腹の子を授かることを選んだのだと。僕はそう思うことで、例え今から試すことが失敗に終わったとしても、諦めをつけることができます」
「タガン様……」
「だから貴方は、どうか堂々と。何事もなかったような顔で、お部屋へ戻って、そのサンダルについた雪を拭いておいてください。その様子では、僕が他言するまでもなく、外へ行ったことが知れてしまいます」
 だからどうか、と。王宮のほうへ、一歩、肩を押したタガンの眸をじっと見つめ、エイルは無言で背中を向けた。そしてそのまま、駆けるように王宮へ向かっていく。言葉の端々に潜めた願いを、彼女は多分、拾っただろう。何があっても幸せでいてほしい、イースと共に。そう思わせる人だったのは、彼女がタガンにとって最も世界が狭く、最も汚れのなかった、あの農園での単調な日々を思い出させる美しさを持っていたせいか。
 そしてどうか、今から行うことを誰にも口外せず、止めさせずにいてほしいということも。無言で去った態度が、それを理解していた何よりの証拠だ。彼女は、返事をしなかった。肯定するようなことも否定するようなことも、ここで何も聞いてはいなかった。そういうことに、させてくれる。


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