第Y章


「イース様は、そんなふうに……」
「イースはいつも、会うたびに言っていました。自分の家族の中に、拭いきれない違和感がある。食事をしていても、仕事をしていても、雑談をしていても、本当はそこにいていいはずの人が一人足りていない。そういうものだと割り切ったつもりでも、ふと窓の外を見るたびに、自分たちはどうしてあの廻廊を走っていって、姉を連れ出してやらないのだろう、と考えるのだと」
「……」
「《忘却の王女》に王家が縛られる信仰を、私たちの代で、終わりにしたい。けれど生まれてしまったら、同じことを繰り返してしまうのかもしれないから。だからその存在を、生み出さずに済む可能性があるのなら、試すべきだと思いました。本当に二人きりの、協力者の誰もいない計画でした」
「はい……」
「封を厳重に施した文通での確認を重ね、私はイースの提案によって、彼の誕生祭へ招かれることとなりました。そしてそこで同時に結婚の発表も行い、最高潮に盛り上がった立食パーティーの会場を揃って回り――白ワインと水のグラスを間違えたふりをして、イースに縋って座り込み、……後は、お察しの通りです」
 ふ、と。エイルはそこでたった一度、数え切れない感情を織り交ぜた顔のままで、笑った。まだ水の膜が薄く張ったインクブルーの眸に、朝の光が差し込んで、琥珀色が溶ける。手すりの上に積もった雪を払い、タガンはそこに背中を預けた。視界の端でエイルが、素早く目元を拭った。
「所詮は、外の国の私が考えた、稚拙な計画だったのでしょう。メイオール様は、私たちの計画など初めから見通しておられました。事前に署名をさせられた数え切れない書類の中に、事実上の婚姻届に値するものがあったのです。……私は、とっくにこの王国の人間でした。イースの誕生祭の、何ヶ月も前から。私は、私の……!」
「エイル様」
「私の行いは、結局のところ、ただ次の忘却の王女が生まれるのを早めただけにすぎませんでした。式の前日に受けた検査で、はっきりしました。お腹の子は、女の子です。忘却の力を継いでいるかどうかは、もちろんまだ分かりません。でも、それでも」
「……っ」
「何百年も続いたものが、私の代で偶然にも途絶えるなんて……普通であれば、ありえないことです。私は、やり方を変えることはできなかったのですから。忘却の王女が、生まれるのでしょう。これまでと同じように」
 忘却の王女が、生まれる。それが意味するところの、答えは二つだ。一つは、王家はまた同じ、白の塔に縛られた歴史を繰り返す。そして、もう一つは。
「……タガン様。貴方には、どうしても正確な日数をお教えしたかった。式があれほど早く執り行われたのは、この子の生まれる時期を、少しでも体裁の守れるものにしたかったからでしょう。ですからこのことは、他言したことが知れれば、きっと私もただでは済みません」
「ええ、そうでしょうね。分かっています」
「有難うございます。私にできることはもう、こうして、伝えるべき人に本当のことを伝えることくらいしかありませんでした。どうか」
「……はい」
「どうか、貴方も。少しでも、貴方が苦しまない選択をしてください。そして、できれば」
「……」
「この子が、いつか大きくなって、ユリア様と同じように貴方を必要としたとき。愛してとは言いませんから、どうか、――許してください」
 新たに生まれる、ということは、今あるものは終わりを迎えるということだ。エイルが言ったことは正しかった。同じ順序を踏み、同じ歩みをしたものは、同じ結末しか迎えない。偶然など起こらない。そこへ繋がる道が、壊れていないのだから。
 目の前で肩を震わせながら頭を下げたエイルに、タガンはそれより低く、そっと膝をついてしゃがんだ。見上げる視線に気づいて、エイルがようやく目を開ける。いつの間にかそこにいたタガンを見て、驚いたように目を見開いた。その顔は、まだ歳相応の、あどけなささえ残る少女のものだった。
「ご自分の行動が、ユリアを殺す、と。そう思っていらっしゃいますか?」
 びくりと、ネグリジェにコートを羽織っただけの肩が大きく揺れる。廻廊の下を、荷車が行き交い始めた。そろそろ王宮の兵士たちも、大勢目覚めてくる時間だ。
 タガンは自身の中の、本当に深いところだけを見つめた。それは思考よりももっと深く、あの心臓の裏、銀の塊の、そのまた芯にある水溜りのような深淵だ。そこには散々争いを繰り返した理性と本能の、二つがどちらも抱えていた感情が浮かんでいる。心臓は揺れ動いていたが、そこは変わらず静かで、迷いなどなかった。問いかければ、当然のように答えが返ってくる。お前の望みは、何だ。
 ――今生こそ、忘却の王女を手に入れることだ。
 ――今生の彼女を、ユリアを、手放さないことだ。
「そう思っていらっしゃるのであれば、多分、僕も同じことを気に病んでいます」
「え?」
「僕の行動が、もしかしたら貴方のお腹の子に、害をなす結果になるかもしれません」
「タガン様、それはどういう……?」
「……エイル様。僕は、まだ見ぬ忘却の王女よりも、今その塔にいる、ユリアが大切なんです。だから……」
 タガンは立ち上がると、真っ直ぐにエイルの眸を見て答えた。
「ユリアを、本当に助けられないのかどうか。試さずにはいられない。その結果として、もしも彼女が本当に生き残ったら、忘却の王女として生まれるはずだった貴方の子供がどうなるのか……それも分からないのに」
「……っ」
「でも、僕にとって選択は、それ以外にないんです。記憶にとって大切なものはただの忘却でも、今の僕にとっては、忘却の力はユリアが持っているから。彼女の中にあるから、欲しいんです。だから」
「タガン、様」
「……許されたいのは、僕も同じですよ。貴方がユリアの死も可能性に入れながら、イース様との結婚を選び、忘却の王女を終わらせようと考えたように。僕もあらゆる可能性があることを分かっていながら、それでもユリアを選びたい。ユリアを最後にするのではなく、彼女を救えないなら、忘却の王女がこの先に一人もいなくなったって、僕には意味などないんです」
 もし、この場でエイルが許さないと声を上げたなら。今の彼女には、タガンを兵士に捕らえさせるだけの立場があった。タガンもそれは充分に理解していたが、心の底を隠すことなく、エイルに話して明かした。


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