第U章


 途端、メイドの表情が戸惑いに満ちたものになったので、タガンは思わずそう聞き返してしまった。メイドは慌てて首を横に振り、そういう意味では、と否定する。ならば別の問題でも、となおもたずねれば、それにも彼女の答えは「いいえ」だった。タガンは椅子に腰を下ろしていて、彼女は傍らに立っている。見上げているのはタガンで見下ろしているのはメイドだというのに、彼女は居心地が悪そうに、何かを言いかけては口を開いたり閉じたりした。
「彼女が髪だけ放ったらかしにされているのは、何か理由でも?」
「それは……」
「朝、白の塔へ行くと着ている服が変わっています。メイドの中に、風呂や着替えの世話をしている方がいらっしゃるのですよね? その方は、あの髪を見て伸びすぎだとは思われないのですか。今にも、視界が塞がりそうなくらいだと思いますが」
 答えを狭めて誘導するように、感じたことを正直に話す。この一週間、ユリアを見てきたが、彼女はいつも小奇麗な服装をしていた。人前に出るわけではないからか、王女にしては軽装だが、シフォンの袖を絞ったワンピースや、肩口から爪先にかけてグラデーションの入ったドレスを着ている。塔の中から出ることがないため、足元は素足以外見たことがないが、両手両足の爪の先まで、さりげない手入れが行き届いていた。
 だからこそ、前髪だけ無頓着なことが不可解に思える。背中をいっぱいに覆うほど後ろが長いことはいい。仮にも王女だ。女性らしく、髪を長くしておこうというのならそれも頷ける。たった一点、不釣合いに放置された前髪を除いては。彼女のそれはまさしく、伸ばしている、というよりは放置されているといったふうだった。
 首を少し傾けるだけで眸にかかり、頬へ流れ、ローズダストが顔の上に渓谷のような線を描く。初めはそれを含めて《ユリア》という人物を形作って見えたが、あれではまるで、王女というより打ち捨てられた人形だ。束になって流れた髪の甘やかにくすんだ色と色の間から、半透明に感情を見せない眸が覗く。そういうときのユリアは、何とも空ろで生気が感じられず、無機質なものに思えた。
「……怖いのだそうです。ユリア様の、あの眸に見つめられるのが」
「え?」
「喜んでいらっしゃるのか、怒っていらっしゃるのか、ユリア様の目は……私たちには、何を思っていらっしゃるのか、分からないのです。言葉もなく、あの目にじっと見つめられると、分からないことに怯えている心を見透かされそうで怖いのだと。ユリア様のお着替えをさせていただいている者が、そう言っておりました」
 小さく縮こまった声で、細々とそう伝え、メイドはこれでいいかと問うようにタガンの顔を窺った。
「だから、前髪を長く残して、少しでも目を覆ってしまおうと?」
「……はい」
「……馬鹿な……そんなことをしたら、余計に気味が悪くなるでしょう。そもそも、彼女は超能力者でも魔女でもないですよ。人の心を読むなんて真似、できるとは思えません」
 知らず、語気が強まってしまっていたらしい。洗濯篭を抱えたままのメイドがびくりと身を竦ませたのを見て、タガンは我に返り、その先に言おうとしかけていたことをすべて呑み込んだ。すみません、と溜息を一つ吐いて言えば、遠慮がちに大丈夫ですと返事がかえってくる。ばらけてしまった言葉の中から再び、口にするものを選んで、今度は慎重に話す。
「その方の言いたいことも、分からないとは言いませんが。ユリアが誰かをじっと見るのは、心を読んでいるからではなくて、それが誰なのか、なぜ自分の傍にいるのか、忘れているからでしょう」
「それは、そうなのですよね。やはり」
「……忘却、ですから。それに、万が一心を見透かしたとして、彼女はそれも忘れます。そういう存在だと、王宮の方々も自分たちでそう言っているではありませんか」
「はい」
「それでも、怖いんですね。ユリアが」
 確信を持った問いかけに、メイドは曖昧に瞼を伏せるだけだった。世話をしている者に限らず、彼女もまた、ユリアへの印象はそのようなものなのだろう。忘れているから、何も分からないだけ。分からないから、その目に感情がこもらないだけ。分かっていても、確かに、ユリアの眼差しは異質だ。今までに出会った、どんな人間とも違う。人の目の形をしているが、人間らしい温度や思考はそこに感じられない。
 タガンはふと、窓に映る自分の顔を見て日が落ちていることに気づき、同時に自分はどうなのだろうと考えた。こうして言葉を介して意思を伝え合い、人として歳相応の生活や立ち居振る舞いをすることはできる。自分は、タガン。ごく一般的な両親の元に生まれた、記憶の力を宿しただけの、十八歳の人間だ。ずっと、そう信じていることにさえ気づかないほどに、それを疑わず生きてきた。だが、本当はどうなのだろう。
 ユリアの、対の存在であるということは。本質は、思っている以上に彼女と似通っているのかもしれない。
 ふと、それに気づいて眼前のメイドを見れば、彼女はどうなさいましたかと遠慮気味に首を傾げて、困ったように微笑んだ。その視線は、タガンの眸を長時間捉えることがない。忙しなく動き回っている。
 ああ、そうなのか。タガンは自分もそれとなく、彼女から視線を逸らした。代わりに、ちょうど目に入った篭へ両手を伸ばす。
「洗濯、ありがとうございました。片づけは自分でやりますから、もう大丈夫です」
「あ、はい……!」
「それと、鋏の件は無理にとは言いません。あのままにしておくのが皆さんにとって平穏であるなら、このことは忘れます。……ああ」
「はい?」
「もし、持ってきていただけるのであれば、部屋になくて不便だからと要求されたということにしてください」
 洗濯物を篭ごと受け取ってそう伝えると、メイドは少し驚いた顔をして、無言で頭を下げた。部屋を後にする直前、もう一礼していった彼女の姿を思い返し、クローゼットを開けてシャツを片づける。王宮で見かける中では、まだ若いメイドだった。余計な頼みごとを負ってきたと、彼女が責められる必要はない。何も知らなかったことにしてくれたら、そのほうが都合は良いのだ。立場上、タガンがユリアに対して独断で行ったことに、メイドは口を挟めない。
 書きかけの日記を手早く記して引き出しへ戻し、タガンは食堂に向かった。途中、銀のワゴンに一人分の食事をのせた、見知らぬメイドが足早に擦れ違っていった。視線で追えば、廊下の途中にある扉を開けて素早く外へ行く。その先は、空中廻廊だ。廻廊の先にある建物は、白の塔一つしかない。


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