第U章


 記憶の力を持っている自分が、母の胎内に生を受けたときから今このときに至るまで、すべてを記憶しているように、彼女は今日までの事柄をすべて覚えていない。一日かけて色々なことを教えても、翌朝には生まれ変わったように忘れてしまっている。
 アイビーを千切ったことは五回目。僕はタガン、と自己紹介をしたことは七回目。君はユリア、と教えたことは三回。三日間は自分の名前と共に必ず伝えていたが、無意味だと確信して、四日目からはやめた。
 代わりに、何度となく彼女へ向けて、その名を繰り返す。響きが耳へ残ってくれれば、いつか、それが名前というものだと気づいてくれるかもしれない。言葉さえも忘れていくというのなら、君はユリア、と告げたところで、彼女の耳には平坦な響きの一連なりでしかないのだ。ユリア。動物へ向けて、こちらを向きなさいと手を叩くように、彼女をその響きで呼ぶ。日がもうすぐ傾くという頃になると、わずかながら、反応するようになる。
 アドにそれを話したところ、王家が彼女を白の塔に隔離した理由はそれだと返された。血の繋がった王女を、言葉の通じない動物に対するように扱わなくてはならない。ユリア、という呼びかけに応じているのではなく、ただ、繰り返し訪れる物音に振り返っているだけなのだ。彼女のそれは、まさに草原のシカや、道端の猫と同じ反応なのである。
 そうまでしても、翌朝にはまた、何もかもを忘れている。あれほど繰り返した名前の音にも、振り返ることはなくなっている。彼女に限らず、王家が代々忘却の王女を塔に押し込めてきた理由は、繰り返されるその毎日に耐えられないからなのだそうだ。王国のために日夜動く傍らで、夜を越えるたびにまっさらな、何も知らない赤子に戻ってしまう我が子を見つめ続ける生活に、どんな偉大な王も耐えることができなかったのだという。
 また、王女の後に生まれた子供たちにとっては、忘却の王女の存在は大切に思うほど辛いものとなりうる。自分たちの結婚、そして出産が、忘却の王女を殺すのだ。姉として慕う気持ちが芽生えてしまえば、その選択はとても厳しくなる。家族の情で王家が絶えることのないよう、兄弟たちと彼女たちは引き離され、顔を合わせることも数えるほどしかさせずに育てる。もう何百年と続いてきた、王家の暗黙の了解らしい。
「辛い荷を負わせてしまったと、皆が思っている」
「ユリアに?」
「第一王女のしがらみも確かにそうだが、そなたに、だ」
 空中廻廊の端に身を寄せて、アドはそう低く告げた。無言で先を促したタガンに、腕を組んで眼下の町並みを眺めたまま、口を開く。
「親族でさえ、耐えられない。親でさえ辛いと思う責務を、背負っていただいてしまっている。まだ若いというのに」
「……」
「だが、これでも王はそなたが十八歳になるのを待たれたのだ。そなたがユリア様とほとんど歳の変わらない少年だとお知りになって、困惑されていた」
「それは、マルシス様の頃の話で……?」
「ああ。……五年間、ユリア様は日ごとに荒れ果て、手がつけられなくなっていかれたが……だからこそ、せめて十八歳までは待たねばならぬ、と。それくらいになれば、塔に閉じ込められ、人であることすら分かっておらぬような同年代の少女とまみえても、そなたの心が芯まで打ちのめされることはないであろう、と」
「……」
「私には、そなたがあのとき何を感じたか、今、この務めをどう受け止めているか、到底測ることはできないが……少なくとも、表面上は冷静に見受けられる。少し、安心してもよいか」
 眸の裏で、クラレットが鮮烈に瞬いて消えていった。そうだったのか、と思った。心が凪いだかと言われれば、特にそうということもない。先王はそれをタガンに直接明かすより先に、世を去った。真偽を確かめる術などない。
 アドのすべてを信じるには、五年前、王宮で抱いた嫌悪感はタガンの中に根強く残っていた。そして、消えることはないだろう。記憶の力は、それが薄れることを許さない。情景を思い起こせば今でも、あの日、あの瞬間と同じ、例えようのない苦い感情が押し寄せてくる。
「食堂へ、行きますので」
「ああ、引き留めたな。申し訳ない」
「いえ。失礼します」
 話を打ち切って背を向けたタガンを、アドは責めなかった。

 ――ぱしん、と眼前のグレイが閉じて、開く。
 瞬きに戻されるように、回想から引き上げられた。景色が廻廊の上から、今このときに戻る。気づけばタガンのいつまでも離れていかない指を、ユリアが不思議そうに見上げていた。
「ごめん。髪、これでいいだろう」
「……」
「……前髪が長いね。もしかして、あまり切ってもらえないのか?」
 一方的に話しかけながら、二日ほど前の話だったか、と、頭の中で回想を意図的に、過去に分類する。そうしておかないと、つい先ほどのことのように思い返せてしまうのだ。何日、何年経って、もはや相手に忘れ去られる頃になっても覚えている。覚えていない他人を、なんて薄情なのだろうと責め立てたくなってしまう。世界には、記憶があれば忘却があることが当たり前なのに。
「不便だな。片方しか、持っていないっていうのは」
 呟いても、片割れであるはずの少女は返事をしなかった。剥製のよう。何の気なしに思い浮かべた表現だったが、改めて見ても、彼女にはその言葉がよく似合う。
「言葉が覚えていられたら、君だって、そう言うか」
 一瞬、自分もこんなふうになれたら楽だっただろうかと思って、タガンは自嘲した。忘却の力を宿して生まれた彼女には、自分のように、この不安定な心を言葉にして吐き出すこともできない。その胸の奥が本当は何を思っているのか、誰にも、血の繋がった家族にさえ知ることはかなわない。そうして一生を、この狭く真っ白な、塔の中で終えるのだ。
「……ユリア」
 何度目かの呼びかけに、グレイの眸が仄かに揺れた。拾いそびれたアイビーが、一枚、日溜まりに散っている。

「鋏、ですか?」
 夕刻、タガンの部屋に洗濯物を置きに来たメイドは、人気がないと思って足を踏み入れた部屋の奥にタガンがいたもので、挨拶が遅れたことを恐縮しながら入ってきた。篭のなかに、洗い立てのシャツやタオルを積んでいる。書き物机に向かって日記を記していたタガンは、自分よりいくつか年上に見えるメイドに、はい、と頷いた。
「鋏と、いらない紙でもありませんか」
「何か、お作りになるのですか」
「いえ。前髪を、少し切りたくて」
 答えると、メイドはしげしげとタガンのストーングレイの髪を眺めた。その様子に、別に構わないのだが誤解を受けていると気づき、抜け落ちていた主語を後からつけ加える。
「僕ではなくて、ユリアの髪です」
「あ、ユ、ユリア様の……、ですか」
「ええ。……あの、何か問題でもありましたか。専属の担当者がいるとか、王宮では決められた日以外に髪を切ってはならないとか」


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