Y.星読師


 「最近、あの古書屋に行っているんですってね」
 どきりと、何の構えもなかった心臓に冷や水がかけられて、マリアは手にしていた食器を落としそうになった。父は店番をしていて、毎日この時間には母と二人での昼食を採る。そんな日課の、終わってすぐのことだった。
「古書屋って……、アークのこと?」
「あそこ以外にないでしょう」
わざと他愛無い会話のような声で返したが、指先に緊張が走るのは隠しようがなく、手にしていた布巾がきつく握られて皴を寄せる。いつ気づかれたのだろうと、マリアは母に背を向けたまま疑問を巡らせた。先日の夜のことは、おそらく見つかっていなかったはずだ。部屋に戻ってすぐリビングへ下りてみたが何も言われなかったし、靴だって元の場所に戻しておいた。では、それ以外のいつかということになる。マリアはあれから昼間に古書屋を訪れたときのことを思い出してみたが、どれもいつもと変わりない、店内でのお喋りの記憶でしかなかった。
 本当にいつ、と乾いた食器を拭き続けて考えるマリアに、その後ろ姿をじっと見ていた母が口を開いた。
「魚屋の息子さんがね、あなたが古書屋から出てくるのを見たそうよ」
「……あ……」
「……思い当たる節がありそうね」
レオくん、と近所の少年を思い浮かべて、同時にマリアは小さく声を上げてしまった。そうだった。大人はあの古書屋に寄り付かないが、あの子は違った。ノアを追いかけて、尻尾を掴んだらしいというあの噂を、とうに忘れていたけれど。入るときは周囲を気にしていたのに比べて、あのドアからは外が見えないこともあり、出て行くときは見送ってくれるジルと話しながら、あまり注意を払わずに店を後にしていた。ノアのいなかった日だって、何度もある。
「噂になっているわ、あのお店の娘さんは魔術にかかっているって」
「何、それ」
「ただの噂よ。若い人の少ない街だもの、あなたの思っている以上に、みんなあなたのことをよく見ているの」
例えにしても安直なその表現に、マリアは胸焼けのような気分の悪さを覚えた。騙されている、といっそはっきり言えばいいのに。そんな薄い膜に包んだくらいで、秘密の話をしているつもりなのだろうか。
 「ふうん、そうなの。それなら私だけじゃなくて、ジルのこともよく見ればいいんだわ」
 なんて、小さい囲いの中で話をしているのだろう。誰かが呟いて、それが誰かと通じ合って、まるでおとぎ話でもするようにとんとんと伝わっていってしまう。マリアは近所の人との付き合いを幼い頃から感じて育ったため、これまで一度も噂話にされるような行動を起こしたことはなかった。白い目や好奇の目で見られることが、この街でどれほど生活しにくいことかを分かっている。だが、そんな考えを遮るように唇から飛び出したのは、自分でも驚くほど挑発的で強気な声だった。
「遠くからひそひそ想像ばかりしていないで、みんなで押しかけてきちんと見てみればいいのよ。若い娘一人が無事で帰って来られるんだもの、証明されているじゃない」
「……マリア」
「ついて来たらいいんだわ、お母さんだって。私が魔術にかけられているっていうなら、レオくんはどうなの?あの子なんてまだ小さい子供でしょう。私よりずっと非力な、簡単に捕まえられる子供だわ」
「……」
「でも、無事だった。怪我はしたかもしれないけれど、あれはレオくんの悪戯のせいよ。呪いでも、魔術でもない」
口をついて出て行く声が、感情の制御を離れて勝手に零れていく。荷車の車輪が外れたようにそれは見えない壁とぶつかりながら転がっていって、あっという間に元に戻せるものではなくなってしまった。


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