X.星満ちて、夜


 小さな街灯に照らされた時計が、夜九時を指している。人の声や太陽の明るさのない道は、昼間より細く長く、そして建物や植木が大きく聳えて見えた。
 「この辺りで大丈夫よ」
 暗がりの中を歩いていた足を止めて、マリアが言う。隣を歩いていたジルが一歩先へ行ってから、その言葉に振り返って少し目を丸くした。目立たないようにとカンテラを置いてきた彼だったが、これくらいの距離ならば存外表情は読み取れるのだな、とマリアは思う。ここはもう商店街の中だ。マリアの家も、あと十歩も歩けば見えてくるだろう。
「いや、いいよ。家まで送る」
「え、そう?」
「うん」
近いから、と言いかけた声を小声で遮った彼は、やけにはっきりとそう言い通した。夜道は確かに暗いが、顔を知らない人間のほとんどいない街だ。危険があるような場所とは思えない。それくらいは一年も暮らしていれば察しがつきそうなものだけれど、と首を傾げたマリアに、彼は少し言葉を探すように視線を逸らしてから、苦笑気味に言った。
「……いや、違うんだ。暗いから送ると言いたいんじゃなくてね」
「そうなの?」
「君が、家に戻るのを見届けておくべきだと思って。……もし怒られたり、鍵がかけられていたりしたら、一緒に謝りに入るべきかと」
予想もしていなかった言葉に、マリアは咄嗟に礼を言うことも断ることも頭に浮かばず、ただ余計に叱られる可能性もあるけれど、と申し訳なさそうに続けた彼を見上げて、見つめた。思考が、ひどく緩慢だった。少し離れて後ろからついてきていたノアが、足元に絡んで鳴くまでは。
 「そんなこと、考えてくれていたの」
 「一応は」
 「そう……、多分、気づかれていないと思うけれど」
 ニャア、という細い鳴き声が響いたことで、自分の沈黙に気がついてマリアは慌ててそんなことを口にした。そうだといいけれど、と頷いて、ジルはまた前を向いて歩いていく。横顔が後ろ姿になりそうになって、その一瞬、マリアは彼が自分の父や母と向き合っているところを想像してしまい―――、我に返って隣に並び直した。
 心根の、貧しい女みたいだと思う。悪女というには弱くて、けれど悪い女かもしれない。マリアは自分がとても性格の良くないものになった気がして、必死にその困惑を押し隠した。ほんの一瞬だけれど、確かに思ったのだ。誰も本当のことを知らないこの人が、ただ少し傍にいる自分のために、本当のことを知らない人の前に身を晒してくれる。それを理解したとき、家を抜け出したことが見つかってもいいと思った。そんなことはさせられないではなく、そんなことをしてもらえるのかと思った。これは悪い、非常に性質の悪い、喜びだ。
 マリアは急いでその考えを掻き消そうと、今日のことを一気に思い起こしてわざと思考を掻き乱した。あの一瞬のイメージは呆気なく呑まれて消えていったけれど、じわじわと胸の内側を広げるような高鳴りだけは、どうしても消せずに残った。


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