〈シイ〉は私がこの世で名づけた唯一のものである。
〈しー〉と言いつけられた約束を頑なに守っているように、静かな〈彼女〉、だからシイ。
 シイはどこもかしこも白くて、その色彩のなさも彼女の持つ無音によく似合っている。暗闇を浮遊する足首、ふくら脛、ノースリーブのラッピングみたいなワンピース。覗く肩、稜線のように伸びた腕は細い。当然、手首などもっと細くて折れそうだ。
 シイは髪も白いから、睫毛も白い。瞳も銀色で、私は流れる星の色だと思っている。彼女に言わせると、そんなものではない、流れる星はこのような場所に収まるものではなく大気圏に触れて、と言うが、まあそんな話はさて置いて。
「どうしたんでス、シイ」
 ああ、気をつけてみてもやはり、上手く喋れない口だ。思考の中ではきっちりと言語を組み立てられるのに、いざ音声にすると、片言めいたイントネーションが耳に障る。
 虚空に髪を靡かせて浮かんでいた少女が、こちらを振り向いた。首を傾げる。
「ぼんやりしテ、何か面白いものでも見ましたカ」
「……異常はありません。内部データの定時チェックも問題ありませんでした」
「あア、なるほど。そんな時間でしたねエ」
 滑らかな声で、途切れなく。彼女はかつて、地球に存在した言語のすべてを話すことができる。言語だけではない。文字、もの、科学、文化、人が遺したすべての創造物という膨大なデータが、彼女には収められている。音声を持つのはそれを自在に取り出し、必要なときに、求めに応じて差し出すための手段だ。
 必要なとき――来たるべきとき、というほうが正しいやもしれない。人類、もしくはそれに隣接する何かしらの生き物が、再びあの星に生まれたとき。
 月が突如として軌道を外れ、辺りの星を壊して回ってから、早どれくらいか。時の科学の全力を以てしても解明できなかったその衝突により、人類は絶滅した。人類だけではない。地球は焼け野原と化したのだ。海の半分が失われ、陸の七割が砕け、小さな島々になった。氷の大地は消失し、薄い水とわずかな緑、剥き出しの土とマグマの滾る星がそこに浮かんでいる。今やあの星に、かつての面影は見当たらない。
 シイと私は、地球最後の日々に、人間の手で製造された。
 迫りくる月を前に終わりを悟った彼らは、せめて自分たちの築いてきたものを、遠い未来に遺そうと考えたのだ。半分は未来に生きるもののため、半分は自分たちの存在の意味を、せめて失わずに消えていくためだろう。無価値な生き物だったと認めるには、彼らの歴史は長すぎた。そして密で、努力と挫折に溢れていた。結晶を、何かひとつでもいい、遺したいと思った気持ちは分かる。
 彼らは自分たちが、生物として創り上げたものを、二つに分けた。
 一つは心。
 一つは知識。
 ものを遺すことは難しかった。実際に遺す技術が不足していたのではなく、何を選び、何を諦めるかを争っている時間がなかった。だから彼らは、その作り方を含めた知識を遺すことにした。それがシイなのだ。彼女は、人類の叡智のすべてである。
 そしてもう一つ――心。それが私だ。人間の知識と共に発展し、それの成長なしには新たな知識、文化を生まなかった機能。感情である。人間は長い時間をかけて、数えきれない世代に渡って心を育ててきた。その爛熟した感情の保管庫として、いつか高度な精神を求める生き物が現れたとき、彼らを指導するため造られたもの。それが私である。
 私とシイは、いわば、いつか人間を作るための機械なのだ。彼らは私たちを造って、銀河に放ち、間もなく滅亡していった。大気圏の外側から地球を見つめて、私とシイは二人きりになった。なんと広い家だろう。この宇宙というものは。
 ピー、と少し離れた場所で音が鳴った。シイが振り返って、私を追って傍にやってくる。
 シイには、私から十メートル離れると警告が流れる機能がつけられている。これはシイが、感情を持たないゆえの機能だ。彼女は膨大な知恵を持っているが、それをなぜ、誰のために役立てるかを考えることはできない。自分が何のための、どれほど貴重な存在であるかを知らない。
 ゆえに、私と離さないことで、シイを安全な場所に置いておこうというわけだ。私は感情がある。機械の身でありながら、死が怖い。危険な場所には近づかないし、また、危険が迫ってきていないかといつも気にしている。私にはシイほどの知恵はない。どころか、ほとんど空っぽだ。感情ばかりが膨大に詰まっている。私はそのほとんどを、我が身で経験したことはない。
 知識をあまり入れてもらえなかった理由の一つに、感情を人工的に作ることの難しさが挙げられる。無論、大きな理由は、あまり知識を増やしてしまうと機械として完成しすぎ、感情のデータを相殺してしまうから、なのだが。私やシイを造る科学技術を以てしても、人間の心を完全に作り出すことは不可能だったのだ。ゆえに、私は欠陥品である。
 喜怒哀楽、それと愛憎のように、感情とは種類を分けてしまうと、ひどく明確になってそれぞれの特徴が際立つものだ。元より、科学で切り分けられないものを、科学で無理矢理作って組み合わせ、押し込んだ。それが私の中身である。一切れずつ別々に焼いたケーキを、無理に丸く並べているようなものなのだ。切り口が隠しきれない。私の感情は数万という人間を元にした豊富なデータで造られているが、その動きは極端で、激しい。
 喜の反対は怒、哀でなければ楽。愛もしくは憎、そのどちらかというように。あるいは、両方を抱えていても、それを上手く混ぜ合わせることができない。相反する二つの感情がそれぞれに存在を主張し、私の中で膨れ、鍔迫り合い、同調して曖昧なものになることなく、どちらもあり続ける。
 結果として、私は極端な感情を山ほど抱え持っている。爆発寸前の星と変わりない、いつどんな形で破裂するとも知れない、不安定な心の塊だ。
 もっとも、人間はそんな不安定で不確定な感情をこそ、積み上げた叡智よりも尊い、守るべきものだと考えていたようだけれど。だから私はシイよりも先に造られ、言語を注ぎこむ時間もそこそこに、山のような感情を与えられて叩き起こされ、何度も何度もチェックを受けたのだ。そしてずいぶん経ってからシイが造られ、彼女が目覚める瞬間を見て、〈愛しい〉という感情の真の姿を知ったのだけれど。
「シイ、おいデ」
 私にも彼女にも、登録された名前はない。彼女が反応しているのは、おいで、という言語だ。私の言葉が拙いせいで、時々反応に時間がかかる。それでも、どんな地域の、どんな口調の、どんな年齢の人間にも対応するよう、綿密な言語プログラムを組まれたシイは聞き取る。ふわふわとやってきて、私の前に立ち止まる。
「イイ子、イイ子」
 髪を撫でると目を閉じるのは、彼女の中にある子供の情報をなぞっているのだろう。
 詰め込まれたものの再現にすぎないが、以前はなかった傾向だ。私と二人きりで過ごし始めて、研究者たちとは違う接し方をする私と触れ合うことで、シイはただ知識の受け答えをするだけの、当初造られた目的とは別の行動も取るようになってきた。即ち、感情の表現である。情報の読み上げではなく、目を伏せる、手を上げる、などの動作をすること。
 とはいえ、彼女に感情ができた、などという夢物語ではない。何のことはない、知識として登録されている人間たちの行動を、自分の身で真似ているだけだ。知識の合成であり、感情とは根本的に違う。
 彼女に、心は存在しない。
 分かっているのだが、私はそれが張り裂けそうなほど悲しいし、舞い上がりそうなほど嬉しい。この先シイが、いつか人間の知識を真似て、その口で、私のことをどう思っているか告げる日がきっと来るだろう。私はシイに、いい子、可愛い子、愛しい子――たくさんの言葉をかけているから。彼女がそれに返事をする日が、いつかきっと訪れる。
 私はそれが楽しみで楽しみで、怖ろしくてならない。
 ただの知識の合成による言葉でも、彼女が私を好きだというのか、嫌いだというのか。果てしのない興味がある。そして知りたくない気持ちがある。私はシイを、彼女がまだ真っ白なとろとろした液体金属だった頃から見てきた。頭が、腕が、脚が模られ、ロケットの窓と同じガラスの目が入れられたときは、早く会いたいと焦がれる、恋人のようでもあり母のようでもある、名づけがたい気持ちに震えた。
「シイ、私の愛しイ子」
 彼女のすべてを見てきたのだ。だからこそ、拒まれるのが恐ろしい。この二人きりの宇宙で、手を振りほどかれたら何を掴めばいいだろう。知識はあっても一人では浮遊するばかりの君の手を引いて、守って、導いて、救える者も私しかいないというのに。拒まれたら――そう思うと腹の底がゆらゆら燃える。
 ゆえに、聞きたいし聞きたくない。今はまだ。ほら口を閉じて、〈Shh〉。
「君とこうしテ、もうどれくらいになりますかネ」
「こうして?」
「人間の滅亡カラ、どれくらい経ちましタっけ、ってことでス」
 頬を包んで訊ねると、シイの目の奥がチカッと光った。彼女が計算をするときの合図。薄紅色の唇が開く。
「千と三十一年です」
「ふム、まだそんなものですカ。新しい生命が出てくるマデ、あと何億年かかるやラ」
「過去の地球のデータを参考に、計算をいたしますか?」
「イイ、イイ。さすがの君でモ、ちょっと時間がかかるでショウ? シイ、それよりモ」
 手のひらを上向けて差し出すと、そこに手を重ねてくる。これも、以前にはなかった動作の一つ。
 変化の果てに待つものは、何なのだろうか。私たちは、はたして君が計算をやめた未来の時間に、今のまま存在しているだろうか。
 感情は熟し、知識は組み合わせられる。私たちは変化していく。それが正解か不正解か、咎める者もいない広大な子供部屋で、星々と遊びながら。
「私ト、踊りましょウ」
 二人きり、遊びながら。
 誘いかけると、彼女は軽やかに一礼した。そしてそのまま、ルンバでも踊るように私と組もうとするものだから、違う違うと引き離して両手を握る。流れる星の目を瞬かせて、シイは私を見上げた。
 優秀なるシイ。完全無欠の叡智よ。愛しきシイ。一人では何もままならない、無垢の塊よ。
 ああ私は君のことが、たまらなく愛しくて、憎い。私では爪の先ほども及ばない知識を抱えていながら、永遠にこの気持ちを理解することはない、無邪気な君が。
「もっとでたらめに踊ってくださイ。でないと君を壊してしまウ」
 綺麗なだけの踊りでは、膨れ上がるこの感情を踏みつけて、抑えるには到底足りない。
 そう思って告げれば、シイはわずかな沈黙の後に唇を開こうとするから、掴んだ両手を宙に振り上げた。君の口からこぼれる声が、自身を構成する、金星の熱にも耐える金属の名前を並べ始める前に。踊ろう、叩きつける雨の如く。
「星を落とすみたいニ、踊りましょウ」
 君へ向かう、愛も、憎も。すべて、宇宙の塵になってくれ。今だけでも、いいから。


イラスト提供:甘奈さん




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