春夏秋冬尽(ひととせ・じん)は一年草である。
毎年、春の頭、催花雨のころに目を覚まし、夏を越えて秋を経て、冬を見送って、その背中を追うように眠りに就いた。
そしてまた、催花雨と共に目を覚ます。
記憶の継承はされるが、春夏秋冬はあくまで一年のもので、春に目を覚ます春夏秋冬は前の冬に眠った春夏秋冬とは別物だった。同じ黒縁の眼鏡をしていても、同じぼうっとした男であっても、前髪が鼻の上で二股に分かれる癖まで同一であってもである。春夏秋冬尽は春ごとに生まれ冬ごとに死ぬ、それが事実だった。
二十四回目の春に目覚めた、二十四度目の春夏秋冬もまた同じである。
彼が目覚めて最初に聞いたのは、車の音だった。次いで自転車の風が髪を揺らした。
道端に目覚めたのか、と思いながら目を開け、辺りを見回した。日の当たる歩道の、躑躅の植込みの間に置かれた小さなベンチが、今回の彼の揺りかごだった。
春夏秋冬は大きく伸びをして、とろりとした生地の服の上を日差しが転げまわるのを見た。チャコールグレーの長袖のVネック。初春にはまだ少し寒々しいその恰好も、春夏秋冬にとっては毎度の一張羅である。くあ、と欠伸のついでに産声を上げた。二十四度目の目覚めは、空気は少し排気くさいが、暖かくて悪くない。
さて、どうしようか。
立ち上がり、微かな草木の香りを追って空気の瑞々しいほうへと歩き出す。春夏秋冬にはまず決めるべきことがあった。それはこの一年を、どう生きるか、ということだ。
記憶を手繰り、二十三人の春夏秋冬それぞれの生を思い返す。実にさまざまな春夏秋冬があった。下町で暮らした春夏秋冬、誰とも出会わなかった春夏秋冬、大学へ通った春夏秋冬、仕事に情熱を賭けた春夏秋冬。写真ばかり撮った春夏秋冬、海の向こうで暮らした春夏秋冬、良き友を持った春夏秋冬。愛に生きた春夏秋冬もいる。春夏秋冬の生は、春夏秋冬の数だけ存在する。
今回は、どんな春夏秋冬尽として生きようか。
イヤホンを挿して走り抜ける自転車の高校生をよけ、杖をつく盲人を振り返り、信号待ちをする会社員の後ろを歩き。春夏秋冬はあてどなく、周囲の景色と自分の中にある二十三度の生涯とを照らし合わせていく。そういえば司書として働いたこともあった。翌年は住所も持たず、同じ図書館で浮浪者めいた生活を送った。
春夏秋冬はその一年を過ぎれば、関わった人々の記憶から消えていく。姿かたちが同じでも、これまでの人生で巡り合った人々と、新たな春夏秋冬が、継続した関係を持てることはない。
ゆえに、本当の一年草である。
春夏秋冬は欠伸を宙に放り出し、涙で汚れた眼鏡を拭いた。これまでに生きた場所も、関わった人の顔も、春夏秋冬はすべて覚えているが、それを懐かしいと思うかと問われるとそんなこともない。二十三人の他人の記憶をただ抱えているだけに他ならず、強いていうなら、方向性を決める参考にはなった。
春夏秋冬は、まだどの春夏秋冬も試したことがない人生を送りたかった。それはどんな職業に就くだとか、どんな思想を持って生きるだとかいう選択肢の問題ではなかった。そういう枠を何もかも踏み越えた、もっと何の縛りもない一年を望んでいた。
遠くへ行こうか。別にそんなことは望んでいない。
誰かを探そうか。愛に生きた春夏秋冬はすでにいる。春夏秋冬の中はまだ、あのときにもらった愛情で満ちていて、枯渇するにはもう少し時間がかかりそうだ。
友や恋人や情熱はみなそれぞれの春夏秋冬のもので、彼らに向かう気持ちを引き継いではいなかったが、彼らからもらった気持ちの数々は記憶と共に思い返すことができる。春夏秋冬はここしばらくそんな生涯を送っていたので、まだ胸の中が華やいで、寂しくなかった。
人を求める生涯にはならないようだ。だが、しかし。
春夏秋冬はぐるりと首を回して、右も左も、天も地も分からなくなるくらい、辺りを見た。そこはスクランブル交差点の中心だった。信号が赤に変わり、クラクションの音と戸惑ったようなエンジン音が春夏秋冬を囲む。
人間とは、なんてたくさんいるのだろう。
春夏秋冬はおもむろに道を渡って、ほどけた靴紐を結び直し、考えた。この大量に走る車の中。乱立するビルの窓の一つ一つ。褪せた赤みのある石畳の道。見上げた空を渡る飛行機の上。
すべてに人間が息をしている。乳飲み子から老人まで、実に様々な人間だ。ある人はまだ何も知らず、ある人はまた学校へ通い、ある人は仕事に情熱を賭け、ある人は友と並び、また愛に生き。春夏秋冬も味わったことのある人生を送っている人もいれば、幼子や老いた身など、春夏秋冬には分かりえない年頃の人もいる。彼らは多年草だ、と春夏秋冬は思う。各々の季節に目を覚まし、各々の青き春を、朱き夏を、白き秋を、玄き冬を過ごしている。
雪の降るような老人とすれ違った。次の瞬間にはその目に、双葉の砂も零れる前の子供が飛び込んできた。春夏秋冬の足にぶつかり、転びかけるのを抱きとめる。蝉しぐれの母が駆けてきて、すみませんと頭を下げた。
大地の季節は春だったが、実に様々な四季が動いている。春夏秋冬は混ざりあう風の中を、ゆっくりと歩き続けた。何か、この風景を外側から眺めていられるものになりたかった。一人の人間として、朱夏のふりをして同じ年頃の者たちと生きていくのではなく、この渾然とした景色を枠の外から見続けていたかった。
ふと、春夏秋冬の目に一輪の花が留まった。
それはぐるぐると歩き続けて戻ってきた最初の道、春夏秋冬が生まれたベンチの後ろの花壇に咲く、どこかから飛んできた野の花だった。
背の高い花壇に咲いたその花は、躑躅の間に置かれたベンチの向こうから、道路を眺め続けている。それを見た瞬間、春夏秋冬の求めていた答えが見つかった。
忙しなく歩く人々は、そこに花どころか、ベンチがあることさえ気にも留めずに進んでゆく。春夏秋冬は一人、まっすぐに走ってそのベンチに辿り着くと、花の視界を空けて片側に腰を下ろした。黒髪をさやさやと、街路樹からこぼれてきた風が揺する。日差しが春夏秋冬の体の上で、追いかけっこをするように転がっていく。
眼前を、実に様々な四季が通り過ぎていくのを見ていた。皆、ベンチと花の他に春夏秋冬が増えたことにも気を留めず、各々の視界を見据えて歩き去っていく。
春夏秋冬は晴れの日も雨の日も、一年をここで過ごそうと決めた。
二十四度目の春夏秋冬尽は、路傍の花という生涯を見つけた。
写真提供:ゆずなさん
[ 50/102 ][*prev] [next#]