毎朝、太陽の光がやっと窓枠にかかるかどうかという頃に、目を覚ます。
 うん、と二度三度まばたきをして、伸びをひとつ。裏路地に建つ安宿のベッドは、ゆっくり起きあがっても足元が軋みを上げた。木目のむき出しになった壁にかかっている、白い時計。時刻は午前五時。
 行商の生活に慣れたこの体は、気まぐれに夜を更かしたりしても、案外正確に目を覚ましてくれるもので。
「レイシー」
「ん……」
 だけどかつては僕だって、そうではなかった。
 ベッドの上で毛布にくるまって、起きる気配のない彼女の背中に手を伸ばす。烏の濡れ羽のような黒髪が、生成のシーツに広がっている。
 朝日は直視すればとても眩しいものなのに、一つの部屋を照らすには淡い。小さな、薄明かりを灯した箱のような部屋の中に、三度四度とまばたいて、彼女が目を覚ました。
「おはよう」
 声をかけても、ぽう、と見返してくるだけなのはいつものこと。ほんの三ヶ月前まで踊り子だった彼女は、まだまだ夜型の生活が抜けなくて、朝はいつも眠そうだ。加えて、寝ぼけていると昔の癖が出るのか、意識がはっきりしてくるまではほとんど喋らない。
 だからといって、昔に戻ったみたいだ――と思わないのは、喋らなくても自然に滲む態度が、あの頃とは別人のようだからなのだけれど。
 朝の光から目を覆うように、気だるく伸ばされた腕が、今度は僕へと。無言で絡みついてくるそれが、見た目より強く、長年の稽古で鍛えられた腕であることは知っているのだけれど、引っ張りあげるにはどうにも細くて、いつもできない。
 やれやれと、背中に手を入れて抱き起こす。寝ぼけた頭で何を想うのか、その一瞬に彼女が今日も、僕の首に腕を回してぎゅうっと抱きつくものだから。
 ああ朝だなあなんて、どうしようもなく幸せな習慣に、胸が締めつけられた。
「起きた?」
「……ん」
「支度しよう、今日は天気がいいからね。市場もきっと混んでる」
 市場、と。鸚鵡のように繰り返して、数秒あってから、彼女はこくんと頷いた。ベッドを降り、小さな洗面台で代わる代わる顔を洗ったり、歯を磨いたり。
 窓辺にかけてあった服はさっぱりと乾いている。僕が袖を通して、帯を結んで、一通りの支度を終える頃、洗面所から出てきた彼女は部屋の片隅で服を広げて、紗のような袖に腕を通し、ううんと伸びをした。
 いつにもまして眠そうだな、と思ってから、そうだと櫛を取る。
「レイシー」
「なに?」
「おいで」
 ベッドに腰掛けて、ぽんぽんと隣を叩く。片手に持った櫛を見せると、僕の呼んでいる意味が分かったのか、彼女はまだ夢うつつなりに目を丸くさせた。
「……いいの?」
「いいよ? 今朝は早起きしてくれたからね、まだ時間があるし」
 外に出るには、まだ少し目が覚めていないみたいだし、と。付け足す言葉は、嬉しそうに綻んだ彼女の顔にかき消された。
 冴えているときはめったに見られない、遠慮がちで生真面目な彼女の、子供みたいな甘えた笑顔。この顔を見るたび、僕は何度もはっとして、忘れてはいけないものを見た気持ちになる。
 彼女の中には、こんな鮮やかで、裏切られることを知らない、全幅の信頼のような気持ちも眠っているのだと。
「一本? 二本? どっちがいい?」
「こっち側で、一本がいい」
「了解。そういえば、いつもこっち側に編んでるね」
「うん。手繋ぐとき……邪魔にならないから」
「……そう、だったんだ?」
 いずれ、もっともっと僕たちが一つの時間を積み重ねていけば、寝ても覚めてもこんなふうに、素直な言葉が聞ける日が来たりするのだろうか。今はまだ、こうやって寝起きにゆっくり話しているときにしか、教えてもらえない秘密も、胸の奥の気持ちも。
 長い黒髪に櫛を通して、三つに分けた束を緩やかに編みながら、僕はあえて、何でもないことのように、彼女の甘やかな告白を聞く。
 昼間の彼女はむしろ、荷物が多いと手伝うと言って、手など繋ぎたがるそぶりも見せない。そういう女の子だから。長い髪が片側に寄せられている理由なんて、僕は今、初めて知った。
 だから時々、寝起きの彼女の髪を編む。
 ささやかな秘密がたくさんこぼれてくる、朝の時間を引き延ばすために。そうして、僕が三本の束を一つの尾に変え終わる頃には、うつらうつらしていた彼女も、ずいぶんしっかりしてきていて。
「またやってもらっちゃった……、ごめんなさい、朝弱くて」
「気にしないで。生活って、そう簡単に変われるものじゃないよ」
 ありがとう、なんて眉を下げて、少し申し訳なさそうに笑う。いつもの彼女が、そこにいるのだ。
「さ、行こうか。荷物はこれだけで……、あ、鍵」
「持ったわ。他に何か、必要なものある?」
「特にないんじゃないかな」
 二人で荷物を確かめて、ショールをはおって。時計の針は六時を指している。市場まで歩いていくのに、ちょうどいい。
「あ、そうだ、ガラッド」
「ん?」
 三つ編みのない、片側の手を取って、ドアを開けたとき。靴の釦を留めた彼女は、思い出したように顔を上げて、笑った。
「おはよう。私、今日はまだ言ってなかったような気がして」
 一日の始まる、音が聞こえた。



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