その人魚は、聴くものすべてを氷に閉じ込める声を持って生まれた。歌う悪魔、氷の魔女、白い魔物。たくさんの名を与えられて、多くの人が彼女を呼んだ。けれど、いいえ私の名は、と彼女が本当の名を答えようとするたび、一人、また一人と凍ってゆく。
 やがて彼女は自分の名を思い出せなくなった。なんと呼ばれても答えない彼女に、凍りつく者はいなくなった。矢を向けられると、口を開くふりをして舟を遠ざけた。そして一人、深い海の底まで潜っていった。
「わたしの名前は何だった?」
 水底でまた一つ、石が凍る。彼女は忘れてしまったものを探すように、当て所なく海底を彷徨っては、砂の粒や石の欠片に問いかける。もの言わぬものたちは、そのたび声を上げずに凍って、冷たく煌めいた。
 彼女はそれを唇へ当てて、ふっと息を吐く。海中に、白い吹雪が舞った。

『シャルルク』
 あれから季節はいくつか過ぎ、いつしか海の上では、彼女にそんな名がついた。氷漬けの王妃。畏怖の中にも密かな好奇と憧憬を織り交ぜた名だったが、彼女がその名を聞くことはない。
 人魚は凍った。深い海の底で、自分の放った歌声の中で。魔物とも王妃とも呼ばれた美しさをそのままに、溶けない氷に囲まれて眠る。
 海の上では彼女の姿を一目見ようと探しにきた船乗りたちが、ほんのわずかな場所にだけ降り続ける粉雪を訝しんで、ここを永雪の波間と名づけ早々に引き上げようとしていた。その船底の影の落ちる場所では、今も彼女が眠っている。その上には小さな雪が絶えず降り続き、身体を覆う氷はまるで、涙のような雫の形をしているのだ。


フローズンマーメイド




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