10.誘拐犯の供述


メフィスト・フェレスとは仮の名。ならばその正体は何かというと、悪魔の王族・八候王(バール)
の一人、『時の王サマエル』である。

時間と空間を司る彼の力は人類の欲望を具現化したものといって良い。誰にだって塗り替えたい過去のひとつやふたつやみっつやよっつ……例えば汚職事件で退任した政治家も、友人に騙されて借金を負った愚か者も、好意を寄せる人にこっぴどく振られた若者も、たった一度の失敗で倒産した大企業の経営者も、サマエルの存在を知れば、皆揃って血眼で彼の前に金を積み、その足元にひれ伏して無様に懇願するに決まっていた。

だから獅郎が、時の流れに逆らう異空間に拵えられた料理たちを見たとき、思わず白目を向いたのは記憶に新しい。きっとあの時自身の顔も引きつっていた。だって、なんて贅沢な力の使い方だ。
そして彼に力を使わせた張本人が異空間の中身を減らさないのもなかなか許し難い。……許す許さないではないな、もどかしい、というのが正しいだろうか。つまり、そう、獅郎は減らない料理にもどかしさを感じていた。あの空間に腐るという概念がないのだから、料理が勿体ないと嘆くのはお門違いだ。心配の矛先は書庫に籠りっぱなしの少女の方である。

「なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだが」

獅郎がファウスト邸に通い始めてから今日で5日目。彼女が食事をしているところは見たことがない。メフィストのはからいで数を減らした仕事も、そうは言ってもあるにはあるから常にこの屋敷にいるわけではないが、一度も見かけないというのも変な話だろう。
そう、ふと異空間を覗いた3日前から気になってはいた。今日も減らない料理を見て、獅郎はついに切り出した。

「飯に手を付けた形跡がないんだが、腹が減ったときはどうしてんだ?」

嫌な予感がざわざわと鳴り止まなかったので、なるべくさりげなしに、「そういえば」といった調子で尋ねてみる。傍らに本を積み上げ凄まじいスピードで目を通し、いわゆる本の虫状態の朔は、獅郎の声など聞こえてない風に手を動かし続けていた。そんな態度は慣れたもので獅郎も傷ついたりはしない。

裏表紙の畳む音が聞こえるまで待つつもりでのんびりと構えていると、紙の擦れる音がいつの間にか止んでいたのに気付いた。見飽きた風景から隅の黒ずみへと目を向ける。──おかしい。彼女の横顔を見つめることはあっても、彼女に横顔を見つめられることはなかったはずだ。

「すこし、驚いて」

獅郎が声を出せずにいると、少女がそんなことを言った。「いつもと、違うから」俯きがちに添えられた言葉に、獅郎はああ、と一歩遅れて理解の頷きを返す。『図書室』にやってきた獅郎が朔の読んでいる本について聞いて、本を読み終えた朔が質問に答える。思い返せば『図書室』でのやり取りは世話係を申し付けられる前からそうだった。無意識だったが故にそれなりに衝撃の事実ではあるが、理由を推測することは容易い。獅郎はきっと、彼女の読書を邪魔したくなかったのだ。

親から隠れる小さな子供のようで、人の世と隔絶する獣のようで、知恵と知識を愛する女神のようでいて、文学を愛する少女のようだった。なにより神聖であり、どこにでもあるような時間が、ひどく尊いものに思えてしまって。世界の隅でひとり文字に耽る彼女の側にいれる幸せは、変え難いものだ。

自身が無意識の行動を、他人に興味のなさそうな少女が認識していたとなれば、これをどうして笑わずにいられようか。口元を抑えた獅郎を朔は不思議そうに見ると思いきや、すくりと立って傍らに聳える塔のてっぺんに読み掛けの本を重ねた。
獅郎はぎょっと目を剥く。神代朔は本の虫だ。虫なのだ。目の前にいる相手より手の中の本を読み切ることを優先する虫だ。
その朔が読み掛けの本から手を離した。驚かない方がおかしい。

「来て」

あれほど闇に溶け込んでいた少女が、呆気なく境界線を飛び越える。陽の当たる床に足をつけ、その黒髪に光を纏うと、獅郎はえも言われぬ感傷に包まれた。きっとあの悪趣味な悪魔には理解されないだろうが、朔には冷たい宵闇よりも春の日差しがよく似合う。折角きれいな桜色の瞳を持っているのだから。

ぺたぺたと廊下を歩く朔の背中を獅郎はブーツで追いかけた。これはここ数日で分かったことだが、彼女は足に何かを履くことを厭う。自身の部屋は土足厳禁のようだし、庭に出るとき以外は、城の中を裸足で歩き回るようなのだ。だからだろうか、跳ねているわけでも、機嫌が良さそうでもないのに、地に囚われない彼女の足取りは軽やかに見える。

長い廊下の一室に朔が入っていった。部屋の入り口に立つと中は厨房のようで、朔は一角にある冷凍冷蔵庫に向かっていく。業務用の大きいものだが、教会にもひと回り小さいが同じものがあるので獅郎にはすぐに分かった。
扉を開くのに力がいるのか両手でぐいぐいひっぱる姿を見ているとなんだか微笑ましい。手伝ってやるかと獅郎が手を伸ばしかけた途端に、巨大な冷凍冷蔵庫はぱかりと口を開いた。朔が奥に手を伸ばす。こいつはきちんと許可を得て冷蔵庫を漁っているのかと疑問に思ったが、相手は酔狂な悪魔だし問題なさそうだ。

「ん」

突き出された左手に獅郎はぱちぱちと瞬きをした。クリーム色のそれは見覚えのあるものだったので、腰を屈めてぱくりと直接いただかせてもらう。甘いものが特別好きというわけでもないが、このさくさくした食感は気にいっている。獅郎が咀嚼してから嚥下するまでの間、朔は自身の指先をじっと見ていた。……燐の料理を味見するときのノリでいってしまったが、もしかして普通に手の平で受け取った方が良かったのかもしれない。気付けど時すでに遅し。

「で、どうしてマカロンなんか……」

そこで獅郎は彼女が右手に持つ小箱を見た。金持ち御用達なのだろう、名前も聞いたことないようなメーカー名に、純黒を身にまとい、装飾は黒金のリボンのみ。気品を感じさせる出で立ちだ。朔がぱかりと中を暴いて、色とりどりのマカロンから黄色のものを摘み上げる。茶色の内箱にある窪みのいくつかは空だ。……まさか、

「お前、それ食べてたとかじゃねー、よな?」

小さなマカロンをリスのように齧りながら朔はこくんと頷いた。YES?それともNOという意味のYES?どっちだよ。

「腹減ったときそれ食べてたの?」

再び首肯。「ああああ〜」獅郎は溜息混じりの悲鳴を上げ、その場に蹲って頭を抱えた。嫌な予感が当たった。少女は小食なだけでなく偏食家であったというのか。仮にも二児を持つ親としてこれはいただけない。栄養が偏るどころか最悪彼女の成長を止めてしまう可能性もあるのだ。

「メフィストがいる時はどうしてた」
「ふつう」
「……。一緒に食べてたか」
「ん」
「じゃあなんで今はこんなもん食ってんだ」
「おなか空く、から?」
「ちげぇぇ!なんで向こうの料理に手を付けないかってことだよ!」
「めんどう」

盛大な顰めっ面を頂いた。出会ってから一番表情筋が働いたんじゃなかろうか。目を合わせようともしない朔は好き嫌いをする子供のようで、そういう彼女の一面を見つける度、まだ小さかった頃の燐や雪男を重ねてしまう。

とにもかくにもまともな飯を食べさせなければ。使命感に燃えたぎるパパが少女を俵担ぎし部屋から運び出す姿は、ともすれば誘拐犯とその被害者に見えなくもなかった。



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