9.沈黙と既知


淀んだ紙の匂いが鼻をついた。細かい霧のように辺りを漂う埃を、獅郎は掻い潜るようにして進む。幾つも並べられた大きな窓から差す陽光が満遍なく辺りを照らし、照明の代わりを担っていた。それでも室内を全て照らすには程遠く、光の届かない部屋の四隅が黒ずんでいるようにも見える。その暗がりの中に、彼女はいた。

闇と一体化してしまいそうな静謐さだった。淡い光がふたつ浮かんでいるから、夜闇に紛れる黒猫のようだとも思った。依然そこから動かない小さな獣を刺激してしまわないように、獅郎は足音を潜めて近づいていく。日向と日陰の境界。そこに立ってようやっと彼女の輪郭が明らかになる。
車の下に逃げ込んだ猫を探し見るように、獅郎は彼女を上から覗き込んだ。

「今日は何を読んでんだ?」

白いかんばせがぴくりとも動かないので、彼女はきっと近づく獅郎に気付いていたのだろう。気配を消していたはずだが、まあ、いつものことだ。

頁をめくる手が止まり、若木のような首をもたげ、億劫そうに向けられる視線を、獅郎は欠伸で出迎えた。彼女の挙動は赤ん坊を乗せて揺蕩うゆりかごのようで、ひどく眠気を誘うのだ。

「……」

その不自然な空白。出会い頭に欠伸かよ、と言われた気がした。二重瞼に半身を隠した瞳がものを言うわけもないが。
彼女はいつもと変わらぬ生気の抜けた表情なので、獅郎もいつもと変わらず貼り付けた笑顔で相対する。我慢できず小首をかしげてみたりしたが、返ってきたのは長い睫毛の揺らめきだけで、どうにもいたたまれない気持ちになった。彼女は再び本に目を落とす。

身を起こした獅郎は無意識に顎をさすった。背後に見つけた日向ぼっこ中のテーブル席は、大人の男女が行くようなレストランのものに似ている。上等な椅子にどすんと情緒もなく尻を落とし、タバコを取り出そうとした手を止めて、獅郎は再び黒ずみに視線を戻した。
ぺら、ぺら、と野生の子猫はこちらの気も知らず、知る気もなく、恐るべき速さで紙を捲っている。本当に読んでいるのだろうか。そんな疑問は、上下左右に忙しなく動く両目を見てしまえば愚問というに等しい。



「依頼があります」

獅郎がメフィストから急な呼び出しを受けたのは、ちょうど一週間前のことである。
そのとき、獅郎は遠征先の東北地方で任務を終えた後だった。有人の山を荒らす中級悪魔たちの討伐。悪魔の強さや危険度はかろうじて中級といえる程度だが、人の目を盗むのが得意で、如何せん姿が見つけにくい。その上個々がバラバラに動くものだから時間がかかってしまった。
それだけじゃない。現象界(アッシャー)にいる悪魔というものは大なり小なり人間に迷惑をかけるものだが、彼らはろくな攻撃力がないくせにやり口が陰湿で、獅郎は日々泥や汚水や毒に塗れていた。

「知らん。帰る」
「まあまあ落ち着いてください。うちの子の話ですよ」

獅郎は反応を隠す気にもなれず片眉を上げた。メフィストがそう呼ぶのはこの世で一人しかいない。独特の雰囲気を持つ少女、神代朔。現在メフィストがご執心のお相手だ。

最初彼女に避けられ続けていた獅郎だったが、最近はほんの小粒程度だが会話ができるようになっていた。ときにのんびりお茶をして、ときにトランプで遊んで、ときに庭で魍魎と戯れて。乗り気じゃなかったり眠いときの彼女ははっきり誘いを断るが、逆にそれ以外であれば割といつでも乗ってくれるのだ、意外なことに。

それで気付いたのは、彼女が、凡そ彼女くらいの年の子供が知らないような知識を知り得ているということ。
実際の年齢はどうだか分からないが、彼女の見た目は小中学生である。ところが知人との電話に獅郎が使う英語を理解していたり、大学生が論文を書くときに用いるような分厚い本を小説でも読むかのように読み進めたり、その博識さは獅郎に「実は彼女は社会人なのでは」という疑いを抱かせるのには十分であった。「でなければ天才だ」と思うのは段々自身が親の目線になってきているせいだろうか。
どちらにしても、神代朔はその小さな脳みそにどれだけ莫大な知識を蓄えているのか、いやはやまったく計り知れない。

とまあ、こんな風に獅郎は神代朔という少女に惹かれ続けている。たとえ遊びの誘いをすげなく一蹴されてもこの気持ちは増すばかりだ。もしかしたら自分はドエムかもしれないと一瞬本気で考えた。一瞬だけ。

──いくら二児の父親になったとはいえ、藤本獅郎という男の性格からしてみれば、才能だの何だの理由をつけて他所のガキを構い倒す時点で()()()()()()であるのだが。原因に心当たりはあるので、今はそちらはさほど重要ではない。

たったの一言で獅郎の興味を引き摺り出した悪魔がうっそりと笑む。嫌な予感しかしなかった。

「疲れているようなので率直に申し上げます。あなたには私が出かけている間、あの子の面倒を見て欲しいのです」
「は?お前どっか行くの?」
「さきに控える実験について本部から号令を受けまして☆」
「いつもはどうしてんだ」
「ベリアルに任せています。今回は長期滞在なので連れて行きますが」
「別の使用人でも雇えよ」
「……実は、あなたへの依頼は二つあるのです」
「うわいま全力で帰りてぇ」
「アマイモンを朔に近付けないでください☆」
「ほら出たよ」

メフィストは朔とアマイモンが親密な関係になるのを許せないらしい。親密といっても、男女間のあれこれというよりは単に、あのアマイモンが自分より朔と仲が良い、という事実を受け入れ難い感じだった。故によく邪魔をする。トランプを隠したり、会話に割り込んだり、甘いもので釣ったりと、お前は思春期の中学生かと突っ込みたくなるようなやり方で。

一種の嫉妬だろう。たまにはテメェに弄ばされる人間の気持ちを味わってみやがれバカ野郎と舌を出したくもなるが、しかしどうだ、甘酸っぱい日々を送る学生の気分さえあの快楽主義者は楽しんでいるに違いない。そして刹那を生きる悪魔の現在は獅郎の嫌がる顔を喜んでいた。きめぇ。

「どうですか」

ニヤけた横っ面を張り倒してやりたい気分だ、そんな気力は砂粒ほどもないが。獅郎は否を唱えるつもりで口を開いた。が、頭を過ぎった少女の顔が獅郎に思考の隙を与えた。


……いやいや口車に乗せられるな。

――でもあのぼんやりした朔がこのだだっ広い屋敷で一人で生きていけるのだろうか。

それこそベテランの使用人を雇って世話をさせればいい、屋敷の構造だって彼らの方が詳しいだろう。

――人見知りっぽい朔が使用人とコミュニケーションをとれるか?そもそも使用人は安全といえるのだろうか。メフィストの采配を疑うわけではないが、雇った一般人が完全にこちらの味方とは限らない。彼女は異世界の住人であり、この世界に戸籍や個人情報はなにひとつとして存在しないのだから。

待てよ、これは過保護すぎやしないか?失敗して得る経験はあるだろう。コミュニケーション能力だって実際に他人と関わらなければ育つはずもない。


獅郎は考えた。上下の唇を離してから声を発するのに不自然ではない0.8秒で必死に考えた。聖騎士である彼の頭ならばそうして1秒も使わず最適解を弾き出すはずだ。しかし忘れないで欲しい。彼は長期任務明けなのだ。

父の帰りを待つ息子たちの為に不眠不休で働き、休んでいけという現地の祓魔師の申し出を断腸の思いで断り、東京にとんぼ返りしてきた獅郎の疲労蓄積量はまさにエベレスト級だ。体調は言うまでもなく、機嫌はもっと言うまでもない。自宅である協会へ帰る前に上司に呼び止められた獅郎の苛立ちはとっくに天元突破していた。つまり、それらをも上回る強力かつ粘着質な睡魔はすべからく獅郎の頭が回転する回数を半減させたのである。

「わかった」



パタン。ここ数分の『図書室』でも異質な音が、獅郎を埃臭い室内へと連れ戻す。代わり映えしない木立から蠢く黒へと目を向けた。彼女はするりと背と表紙の間をなぞり、芸能人にカンペを見せるディレクターのように、分厚い本を胸の前に立てる。なので獅郎は大根役者のようにそこにある文字列を声に出して読んだ。

「『響きと怒り』ウィリアム・フォークナー……また難しいの読んでんなあ」
「……?」
「オジサンはダメだわ、こういうの。見てるだけで頭痛くなっちまう」
「おもしろいよ」
「そりゃ俺とお前の頭の構造が違うからだ」
「苦手は、ある」
「自分にも苦手な本があるって?例えば?」
「哲学」
「あー」
「ホラー」
「あー……」
「スプラッタ」
「なるほどなあ」
「ミステリーも、あんまり」
「死体の描写があるもんな」

朔がこくりと頷くのを見てから、獅郎は気付いた。哲学が苦手なのは子供によく聞くし、後者2つもおおよその女性が苦手な分類に入るものだ。人に懐かない獣の人間じみている一面に思わずくつりと笑う。すると朔が本を膝に戻してまた表紙を撫でるのだが、その手付きは柔らかく、なんとなく彼女の機嫌が良さそうに見えた。人の感情に自身の感情を左右されるところもそれ(・・)らしい。

彼女が人の気配や機敏に敏感なのは、 自身の存在が薄いからなのだろうか。存在感がないとか、影が薄いとか、いても気付かないとか、そういう次元はとうに超えている。地に足がついていないというか、そう、現実味がなくて、まるで空気に溶け込んでいるようだ。

「今日は」
「ん?」
「今日はいつ、帰るの」

その声がどことなく心細く響くと、その桜色さえ寂しげに揺らいでいるように見えてならない。心置き無く獅郎の質問に答えるために元々の速読を更に速め、大切な読書の時間を割くくらいには、彼女も獅郎を認めているに違いなかった。



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