サ・クラ奇譚 | ナノ




外伝:時巡りて実を結び
 ひとひらの薄紅が舞う。
 賀茂邸に植えられた桜はほとんど花を散らせ、僅かに咲き残った花弁が青々と茂る葉の中にちらほらと見受けられるくらいだった。
 空気は夏に向けてじわじわと熱を帯びるようになり、朝晩の冷え込みも和らいでいる。ここ数日は、やや汗ばむほどだ。
 そんな過ごしやすい日々が過ぎゆく中、咲耶は――伏せっていた。
 先日、百鬼夜行と遠出をした際に足を滑らせて川に落ちたのだ。
 いくら暖かくなりつつあるとはいえ、水遊びをするにはまだ早い。
 ずぶ濡れになった咲耶は案の定とでも言うべきか、発熱して寝込んでしまった。
 珍しく同行していた雅翠の、呆れたような顔が頭から離れない。咲耶を水から引き上げた彼は、呆れと笑いがない交ぜになった表情を浮かべていた。事情を知らされた月草と涼暮は、いわずもがなだ。
 雅翠に担がれて帰邸した咲耶は、有無を言わさずに茵に押し込まれた。涼暮に信じられないほど苦い薬湯を飲まされ――今に至る。
 うっすらと目を開けて、母屋の様子を窺う。
 雅翠が枕元に座していた。
 彼は出仕していたはずだ。いつの間に帰邸したのだろう。
「雅翠……?」
 ぐらぐらと揺れる頭を押さえながら身体を起こせば、書物に視線を落としていた雅翠が顔を上げる。
「気がついたか」
 ずきずきと痛む頭に顔をしかめ、咲耶は小さく頷いた。
 ぼんやりと雅翠を眺めていると、彼は手にしていた書物を閉じる。
 ゆらゆらと頼りなく揺れる視界の中で、彼は咲耶に手を伸ばした。
「……熱いな」
 咲耶の前髪を掻き上げて自分の額を押しつけ、小さく呟く。
 急に間近に迫った顔と唇にかかる吐息に、咲耶は硬直した。
 顔が真っ赤になったのが自分でも分かる。何だこの距離は。咲耶が顔を上げたら、唇が触れ合ってしまいそうではないか。
「ば、ばかあきらのばかばかばか!」
 ろれつの回らない舌で雅翠を罵り、彼の肩を突き飛ばす。
「何でだ」
 咲耶の言動に、雅翠が顔をしかめた。
 自分で考えなさいよと言い返して頬を膨らませる。顔が火照るのは熱のせいだ。断じて、彼にどぎまぎさせられたからではない。
「……何で不機嫌なんだ」
 なおも雅翠を睨み上げていると、彼は理解出来ないとでも言うように首を振る。
「怒るな咲耶」
 宥めるように頭を撫でられ、咲耶はますます頬を膨らませた。
 雅翠は、自分の質の悪さが分かっていない。
 しかし分かっていて咲耶を翻弄しているのなら、なお質が悪い。
 分かって欲しいような欲しくないような、複雑な心地だ。
「……怒っているわけじゃないもの」
 ぼそぼそと呟けば、雅翠が手を止める。
「ああ、なるほど」
 なぜか納得したような声を上げて、彼は嬉しそうに頬を緩めた。
 久方ぶりに見る穏やかな笑みに、心の臓が跳ね上がる。
 咲耶が思わず見とれていると、彼はその笑みをにやりとしたものに変え――
「腹が空いたんだな」
 素晴らしい程に、的外れな事をのたまった。

 咲耶の前で、懐剣がひらめく。
「……あのね、雅翠」
「ちょっと待ってろ」
 人の話を全く聞いていない雅翠に、咲耶は深々と嘆息した。
 目の前では、雅翠が瓜を切り分けている。
 咲耶が空腹なのだと勝手に判断した彼は颯爽と対屋を後にし、すぐに大量の水菓子を抱えて戻ってきた。
 この季節に実をつける枇杷はもちろんの事、まだ実をつけるには早いはずの瓜や杏まである。どうやって手に入れたのだろう。
 いや、それ以前になぜ雅翠は水菓子ばかり持ってきたのだ。確かに水菓子は咲耶の好物だが、普通は粥や古美都(こみづ)を持ってくるだろうに。
 そんな事を考えていると、目の前に一口大に切り分けられた瓜が差し出される。
「ほら」
 餌付けをするような調子で瓜を差し出す雅翠を見上げ、咲耶は目を据わらせた。
「あのね、雅あ……」
 別に空腹なのではないと告げようとした瞬間に、口の中に瓜を放り込まれる。
 突然の事に、咲耶は息を詰まらせた。
 何とか飲み込み、涙目で雅翠を見上げる。
 口元を手で覆って、咲耶は怒りの声を上げた。
「何するのよ!」
 咲耶の怒声に、雅翠が驚いたように瞬きをする。
「食べさせようとしただけだが」
 それは分かる。問題は方法だ。
「いきなり口の中に突っ込まれたら驚くじゃないの!」
 無理矢理飲み込んだせいか、鈍く痛む喉を押さえる。危うく息を詰まらせるところだったのだ、これは咲耶でなくとも文句を言いたくなるはずだ。
 しかし、彼は全く反省していないようだった。
「ほれ」
 頬を膨らませていると、再び目の前に瓜が差し出される。
 その様子が、ふと懐かしい光景と重なった。
 あれはたしか、咲耶が裳着を終えるよりもずっと前――雅翠がこの邸に引き取られてすぐの事だ。
 咲耶も雅翠も互いの存在に慣れる事が出来ず、何となくよそよそしい態度を取っていた。
 そんなある日、彼は風邪を引いて伏せっていた咲耶の元へ見舞いに訪れたのだ――水菓子を持って。
『ほら』
 その時も、彼は咲耶に向かって切り分けた水菓子を差し出した。
 ぎこちない手つきで懐剣を扱い、咲耶の目の前で切り分けてくれた。
 あれは確か――。
「咲耶?」
 記憶の中の彼と、今の彼の姿が重なる。
 小さく首を振って、咲耶は口元に当てていた手を下ろした。
 口を開ければ、雅翠が慣れたように瓜を滑り込ませてくる。
 一口大に切り分けられた瓜を噛みしめると、たっぷりとした水気と甘さが広がった。
「おいしい」
 しっかりと味わってからそう呟けば、雅翠が嬉しそうに笑う。
「ねえ雅翠」
 彼を見上げて、咲耶は口を開いた。
「お願いがあるのだけれど」
「何だ、咲耶」
 三度差し出された瓜を咀嚼して飲み込み、彼の袂を掴む。
 彼にそれを頼めば、自分がまだ幼子なのだと主張してしまうような気がした。甘えるような事を言うのも久方ぶりで、何となく面映ゆい。
 けれど、どうしても頼みたくなってしまったのだ。
「あのね、雅翠」
 幼い頃と同じように彼の袂を引っ張り、小さな声でねだる。
「……秋になったら、林檎を剥いて欲しいのよ」
「林檎を?」
 不思議そうに首を傾げた雅翠に、咲耶は頷いてみせた。
「林檎よ、林檎」
 何故か熱くなってくる顔を彼から逸らして、咲耶はもう一度言葉を重ねる。
「兎の形に切り分けた林檎が食べたいの」
「兎……」
 小さく呟いた雅翠が、少しの時を置いて納得したように声を上げた。
「あれか」
 懐かしそうに目を細めて、彼は視線を寄越してくる。
「……幼子みたいな事を言うんだな」
 喉の奥でくつくつと笑う声に、咲耶は頬を膨らませた。
「い、良いじゃない、懐かしく思ってしまったのだもの」
 朱色の頬をさらに赤く染め、むきになって言い返す。
「……杏、食べたい」
 真っ赤になった顔で次の一口をねだり、咲耶は雅翠の笑みから視線を逸らした。

<終>

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