外伝:言祝ぐ徒花 生きて欲しいと願った。
ただただ必死だった。
散漫になりかけた意識が、強制的に掻き集められる。
消えゆくはずだったものが、強引に留められる。
理を曲げた力は、彼女をこの世に引き留めた。
けれどそこに、
葦津という「器」はない。
あったのは、娘と呼んだ小さな人の器と、今にも消えそうな、か弱い花の器だった。
だから彼女は、月草に憑いた。
そして再び、目を開いたのだ。
――彼の式として。
***
とろとろと微睡んでいた意識が瘴気を感じ取り、警鐘を響かせる。
玻璃が砕けるような音と共に結界が解けた事に気づき、月草ははっとした。散らばっていた意識と霊力を掻き集め、何とか人の形を顕現させる。
この邸の主――
涼暮の式として現世に留め置かれてから二月が過ぎたが、近頃ようやくこの身体と霊力にも慣れ、人の形を取る事ができるようになった。それまでは月草の花として意識だけが宙をたゆたう状態だったが、ようやくものに触れるようになったのだ。
人の姿を取ると、月草の姿は二十歳をいくらかすぎたばかりの女になる。月草色の髪と瞳を持つ、葦津として生きていた頃のなごりなど全く感じさせない、繊細な面差しの女だ。
肩までの髪を揺らし、
背子と
裙をまとった己の姿は、いまだに自分とは思えない。労働を知らぬ手と折れそうなほど華奢な身体は生前とはあまりに違いすぎて、事あるごとに違和感をもたらした。
ときおりつまづきそうになりつつも簀子に上がり、瘴気がただよう方へと駆けつける。
勢いよく妻戸を開いた先には、自分の主となった男と、一月ぶりに見える娘がいた。
「涼暮様!」
怒鳴るように主を呼ぶと、呆然としていた涼暮が弾かれたように顔を向ける。その横で、まだ十にも満たない少女――咲耶が端座し、うつろな眼差しを空に据えていた。
咲耶の小さな身体からは、徒人でもそうと分かるほど濃厚な瘴気が立ち上っている。
モノに憑かれているのだ。
「葦津姫様、咲耶が……!」
「なに易々と取り憑かせているのよ! さっさと引きはがしなさい!」
涼暮を突き飛ばすようにして咲耶へと駆け寄り、その肩を掴む。袿越しに伝わってくる体温は、ひどく熱かった。
「ナウマクサラバタターギャテイビャクサラバ――」
涼暮が真言を唱え始めると、咲耶はその身体からは想像もできない力で暴れ始める。
月草は咲耶は舌を噛まないようにその口に己の腕を突っ込み、小さな身体を反対の手できつく抱え込んだ。咲耶の歯が衣を破り、月草の腕に歯形をつける。
その際に感じる痛みは、実際のものではなく、経験からくるものだった。
憑坐として類い希なる才を発揮し、神と子を成す事ができるサクラの民は、その反面、モノに憑かれやすい。霊力の扱いを覚える前の幼子達は特にその傾向が顕著であり、咲耶もまた、幼い頃から度々モノをその身に憑かせてしまう事があった。
「――
魔界仏界同如理・
一相平等無差別」
涼暮が魔界
偈を唱え終わると同時に、咲耶の身体が弛緩する。
歯形がいくつもついた腕を咲耶の口から外し、月草は安堵の息をついた。
ぐったりと月草にもたれる咲耶の身体は熱を持っているが、身体からは完全に瘴気が抜けている。一時的に寝込むだろうが、それでも命に別状はなさそうだった。
「涼暮様、茵を整えて」
力が抜けたようにへたり込んでいる涼暮へと顔を向け、顎をしゃくって命じる。
「あと結界も。まずは咲耶を寝かせないと」
その言葉に、涼暮がのろのろと身体を起こした。彼は言われるがままに対屋に結界を張り直し、咲耶が暴れたせいで乱れた茵を整える。
整えられた茵に咲耶を寝かせ、喉元まで衾をかけた月草は、きっと涼暮を睨んだ。
別の式に咲耶を頼むと、彼の腕を掴んで対屋を後にする。
「いったい何してたのよ!」
寝殿まで涼暮を引っ張ってきた月草は、涼暮に怒りを爆発させた。
「サクラはモノに憑かれやすい事は、涼暮様も知っているでしょう! こんなに頻繁に憑かれていたら、いくらサクラでも身体がもたないわ!」
「そんな事を言っても、葦津姫様、ここは京ですよ」
邪なものに対する備えが万全であったサクラの里ではなく、魑魅魍魎の跋扈する場所。
幼い咲耶にとっては、害にしかならない場所だ。
「分かっていたでしょう、葦津姫様」
サクラの里を出て京へと来れば、今回のような事がたびたび起きるのだと。
問うように見つめられ、月草は言葉を詰まらせる。彼の瞳はまっすぐすぎて、時折受け止めるのが辛かった。
咲耶にとっては害にしかならない。それは十分に分かっている。
けれど閉鎖的だったサクラの里で生まれ育った月草が頼れたのは、安心して咲耶を託せたのは、涼暮くらいしかいなかったのだ。
「……分かっていたわ。分かっているのよ」
嘆息まじりに呟き、額を押さえる。視界に入り込む月草色の髪は、己の無力の象徴だった。
「ごめんなさい。八つ当たりよ。涼暮様はとてもよくして下さっている。咲耶を大切にして下さっている」
月草となってから咲耶を見たのは、これで三度目だ。
一度目は、月草となった直後。涼暮の腕の中で眠る、ぼろぼろになった咲耶を眺めた。
二度目は、一月後。怪我のせいで伏せり、ようやく起き出せるようになった彼女を、遠目越しに見た。
そして三度目が、今日。
久しぶりに抱きしめた娘の身体は、以前よりも重たくなり、温かかった。彼女の為に用意された対屋や調度も、涼暮が細部にまで気を遣ってくれた事を知っている。
けれど彼は男であり、咲耶が女であり、陰陽師とはいえただの人であり、咲耶がサクラである限り、万全ではない。月草はそれが腹立たしくて、悔しい。
自分では何もできないからだ。
葦津であった頃の霊力が残っていても、月草の身体はそれを使う事ができない。退魔の術を唱えても、霊力は反応してくれない。
「涼暮様に負担をかけているのが心苦しいのよ。だってわたくしは、何もできないんだもの。あなたに迷惑をかけてばかり」
「そんな事」
「サクラの里の事と言い、迷惑をかけている事と言い、わたくしは、不幸を運んでくるのかもしれないわね」
否定しようとした涼暮の言葉をはね除け、笑ってみせる。彼はそれでも何か言おうと口を開いたが、結局何も言わずに閉ざした。複雑な表情を浮かべた涼暮から視線をそらし、月草は嘆息する。
上の娘は、目の前でかき消えた。
愛する夫は、葦津を庇って引き裂かれた。
悲しみに浸る間もなく命を絶たれ、咲耶を一人残していく事になった。
死に行くはずだった咲耶に涼暮が手を差し伸べ、葦津にも手を差し伸べた。
そうして、葦津は月草になった。
目まぐるしく変わる環境に月草はついていけず、心は置き去りのままだ。自分がこの世に存在している唯一の理由である咲耶に対して何もできないという事が、その心に爪を立て、足場を脆くしていた。
「……お願いよ、涼暮様」
無力な月草は、主に希う。
「咲耶を守って。今のわたくしには、何もできない。結界を張る事も、調伏も、何も」
「……葦津姫様」
涼暮の声は、凪いだように穏やかだ。
けれどその笑みは、どこかほろ苦いものを含んでいた。
『……今度から、月草の事、お
義母様とでも呼んでみようかしら』
そんな言葉を、愛しい娘から聞いたからだろうか。
久しぶりに、昔の事を思い出した。
簀子にたたずんでいた月草は、主の気配に気づいて顔を上げる。
この邸に来てから、十年が経った。
自分達は少しずつ変わり、穏やかな関係と、決して埋まらない溝を得た。
思えばあの頃は若かったのだと、いまさらのように思う。
あの頃の月草は、自分という存在の不確かさに苛立ち、怯え、呪っていたのだ。
「涙は止まった? 月草」
あの頃よりも落ちつき、深みを増した声音が月草を呼ぶ。
「ええ。ありがとうごさいます、涼暮様」
口元を緩めて、月草は答えた。
「そう。……良かったね」
涼暮の微笑みは、日だまりのように温かい。彼はすっと視線を逸らし、咲耶の対屋を眺めた。
あそこにいるのは、サクラとして咲き初めた娘と、危ういほどに真っ直ぐな息子だ。
彼の愛しい子ども達。
「……涼暮様」
振り返った主へと、月草は言祝ぐ。
「春が、近いですね」
きっと、花は咲くでしょう。
あなたが大切に守り育ててくれた、花は。
〈終〉