サ・クラ奇譚 | ナノ




外伝:咲くやこの花、木花の姫
「花見に行こうか、咲耶、雅翠」
 帰邸の挨拶もそこそこに彼がそう言い出したのは、桜の見頃も終わりに近づいた日の事だった。
 対屋で髪を乾かしていた咲耶は、その言葉にきょとんとして首を傾げた。
 花見自体は珍しい事ではない。賀茂邸にも桜はあるから、涼暮や雅翠が出仕しなくとも良い日は何度か花見もしていた。――咲耶は花を愛でるのではなく、酒のつまみや菓子をひたすら食べ続けていたのだが。
「……はい?」
 わざわざ出掛ける理由が分からずに涼暮を見上げれば、彼はとても楽しそうに笑っている。その横で、雅翠が不思議そうに涼暮を眺めていた。彼にとっても初耳のようだ。
 涼暮様、と風の音に溶けて消えてしまいそうな声が響き、月草がふわりと姿を現す。
 どうやら、彼女には思い当たる点があったらしい。
「……まだ伺っていなかったのですか?」
 透き通る美しい声に少々の呆れを滲ませて、彼女は涼暮を見上げた。
「かわいい子ども達が伏せっていて、それどころじゃなかったからね。月草にあまり負担をかけるわけにもいかないし」
「けれど、涼暮様。彼の姫君は涼暮様をずっとお待ちしているのでは?」
「一応文は送ったよ。でも、姫君が文字を読めるかは分からないからね。この際二人も連れて行ってしまおうと思って」
 交わされる会話に、ますます訳が分からなくなる。
 涼暮は花見と言っているが、月草との間で交わされる会話は花見と全く関連がない気がする。これではまるで、涼暮がここ最近の間姫君の元へ通わなかった事を、月草が咎めているようではないか。
 そこまで考えて、咲耶ははたと顔を上げた。
「……姫、君……?」
 ぽつりと呟くと、ちょうど同じ答えに至ったらしい雅翠と眼差しが絡み合う。
 しばしの間無言で見つめ合い、咲耶と雅翠は深く頷いた。
 涼暮は四十路が近いというのに未婚だ。今まで咲耶や雅翠に恋人の影を見せた事は一度たりともない。
 そう、一度たりとも「無かった」のだ。今この瞬間までは。
 ――この機会を逃す手はない。
 拳を握りしめて、咲耶は涼暮に訴えた。
「行きます、行きたいです涼暮様! その姫君の元に!」
 きらきらと瞳を輝かせる咲耶を見下ろして、涼暮が何とも言えない表情を浮かべる。
「……花見だからね、咲耶」
 その言葉は、咲耶の耳に入らなかった。

 はらはらと、薄紅の花弁が舞っている。
 珍しく袿を纏った咲耶は、これまた珍しく乗り込んだ牛車――正確には牛車のモノ――の中で、額に手を当てた。
「期待したわたしがばかだったのね……」
 さめざめと嘆くふりをすると、涼暮が呆れたように嘆息する。
「俺は花見だって言ったよね、咲耶。
 もうそろそろ桜も終わるからね、今の内に行かないと春萌(はるも)の姫君が寂しがると思って」
 その言葉に、涼暮の膝の上で酒を飲んでいた少女がこくりと頷いた。
「涼暮の兄様、わたしは寂しかったです。毎年会いに来て下さるのに、今年は、なかなか春萌に会いに来て下さらないんだもの」
 そう言って涼暮に抱きついて幸せそうに頬ずりをする少女を、咲耶は何とも言えない心持ちで眺めた。
 ここに至るまでの出来事を思い返す。
『日が落ちたら出かけるから、用意をしておいで』
 彼にそう言われて、咲耶は慌てて支度を調えた。
 湯浴みを行った為まだ濡れていた髪を月草や他の式の手を借りて乾かし、めったに開ける事の無い唐櫃(からびつ)から女物の装束を引っ張り出し、月草と二人で春らしい襲を探し出したのだ。
 女人にとって、髪を洗うのは大変な労働だ。同じ年頃の姫君と比べれば短い方ではあるが、裳着を終えた咲耶の髪は膝まである。洗うのも大変だが、乾かすのにはとにかく手間がかかった。
 しかし、涼暮が姫君に会いに行くのに同伴するのだから、手を抜く訳にはいかない。
 そもそも咲耶や雅翠が同伴しても良いのかと疑問に思ったが、これはその際考えない事にした。涼暮が良いと言ったのだから、良いのだ。多分。
 魔除けの霊符を袿の下に仕込み、勾玉を袂に忍ばせる。
 オニを鎮めてから、咲耶は出歩く際に霊符を携帯するようにしていた。勾玉が砕けてしまった為、現在の咲耶は非常に狙われやすい。何かあってからでは遅いのだ。
 そうして支度を調えた咲耶だったが、牛車のモノ――朧車(おぼろぐるま)に乗り込んだ辺りから、何やら不穏なものを感じ始めた。
 おかしい。なぜ姫君に会いに行くのに、モノに乗っているのだ。
 内心で首を捻ったが、向かっている先は左京のようだし、他にはおかしな点も見受けられない。
 雅翠も不思議そうな顔をしていたが、涼暮は笑っているだけで何も教えてくれなかった。
 疑惑が確信に変わったのは、邸に入る時だ。
 それまでゆったりと路を進んでいた朧車が、不意に動きを止めた。
 何事かと思って朧車に声をかけようとしたが、彼はそれよりも早く咲耶達に告げる。
「しっかりと捕まっておれよ、人の子達」
 次の瞬間、朧車が爆走を始めた。
 元より牛車は乗り心地が良いとは言えないが、爆走されればその乗り心地はさらに悪くなる。
 恐ろしいほどの速度で急発進した朧車は、次の瞬間に跳躍した。
 咲耶が悲鳴を上げなかったのは、宙を舞う牛車から落ちそうになり、なおかつ頭部を強打していたからに他ならない。
「咲耶!」
 なぜかしっかりと縁に手をかけて衝撃に備えていた雅翠が片手を離し、慌てて咲耶を捕まえる。
 着込んだ装束のせいで首が絞まりかけたが、咲耶は何とか事なきを得た。
「さすが牛車の中の牛車、跳躍も見事だったね」
 涼暮と雅翠にぶつかるようにして牛車の中に戻れば、涼暮がこれ以上ないほど楽しそうに笑っている。
「先に言って下さい!」
 涙目で彼を見上げれば、笑みを含んだ声で謝罪された。
 反省していない。絶対に、反省していない。
 幼さの残る声が牛車の外からかけられたのは、むっとして涼暮を睨み上げた時だった。
「涼暮の兄様!?」
 不意にばさりと前簾が持ち上がり、そこから桜色の塊が飛び込んでくる。
 ふわふわと、癖のある髪が咲耶の視界を埋め尽くした。
「兄様!」
 桜色の髪と領巾(ひれ)をなびかせて、若葉色の瞳を輝かせた少女が涼暮に抱きつく。
 状況が全く理解出来ずに固まる咲耶と雅翠に嘆息してから、涼暮は少女を抱きかかえて口を開いたのだった。
「久しぶり、春萌の姫君」

 彼女はどうやら、桜の木に宿る精――木霊(こだま)らしい。
 涼暮の説明を、咲耶は(へいだん)を頬張りながら聞いていた。
 春萌というらしい少女は、今から二十年程前に奈良から取り寄せられたそうだ。とはいえ、取り寄せられたのは彼女が宿る木であり、木霊である春萌は強制的に来る羽目になったそうだが。
 今まで奈良の地で賑やかに暮らしていた彼女は、移動の影響で力が弱まってしまった。今は桜が咲いている間だけしか人の姿を取る事が出来ず、寂しがっているのだという。
 偶然それを知った涼暮は毎年彼女の元を訪れて花見をするようになり、それが今でも続いているとの事だった。
「それならば、先に言って下されば良かったのに……」
 口の中のものを飲み込んでから恨みがましく言えば、春萌が不思議そうに咲耶を見つめてくる。
木花(このはな)の姫は、わたしの事を知りたいの?」
 外見通りに幼い仕草で首を傾げて、彼女は咲耶ににじり寄った。
「こ、木花の姫?」
 聞き慣れぬ呼称に首を傾げれば、彼女はごく当たり前の事であるかのように頷いてみせる。
「だってあなたの名前は、木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)から取ったのでしょう?」
 木花咲耶姫。
 桜の語源にもなったと言われる、美しい女神の事だ。
 咲耶は、親に名前の由来など聞いた事はない。聞く前に亡くなってしまったのだから、仕方がない。
「……どうでしょう」
 曖昧な笑みを浮かべて首を傾げると、若葉色の瞳がすうと細められた。
 咲耶の首に腕を回して、彼女はじゃれるように身体をすり寄せてくる。仄かな土の匂いと清々しい水の匂い、そして控えめな花の香りが鼻腔をくすぐった。
「浮かない顔をしているわ。――気に障ったのなら、ごめんなさい」
 耳元で囁かれる。
 気にしていないと口にする代わりに、咲耶は彼女の細い身体に腕を回し、柔らかな桜色の髪を撫でた。
「くすぐったいわ、木花の姫」
 くすくすと笑って、彼女はさらにすり寄ってくる。
 その仕草の愛らしさに、咲耶は思わず彼女をぎゅっと抱きしめた。
 何だろう、このかわいらしい少女は。
 普段は甘える側だからか、甘えられるととても嬉しい。
 その時だ。
「咲耶、そこをどけ。桜が見えない」
 いきなり春萌と引き離され、ぐいと強く腕を引かれる。
 何が起きたのか分からずに瞬きをすれば、目の前で春萌が驚いたように目を見開いていた。
「え? ……え?」
 きょとんとしている咲耶を膝の上に乗せて、雅翠が不機嫌そうに酒をあおる。
「……雅翠」
 呆れたように声を上げる涼暮を無視して、彼は咲耶の頭に顎を乗せた。
「花見に来たのに、咲耶がそこにいたら桜が見えない」
 それきり口を閉ざし、咲耶を腕の中に閉じこめる。
「……雅翠?」
 彼の名を呼ぶが、答えは帰ってこない。
「放しなさいよ、雅翠。花が見たいなら場所を代わるから」
 そう提案すれば、彼は首を振った。
「ここでいい」
 腕の力を強め、やや赤みを帯びた目元を緩ませてそうのたまう。
 訳の分からない言動に困惑して、咲耶は涼暮達へと視線を向けた。
 声に出さずに助けを求めれば涼暮が苦笑し、春萌は衣の袖で口元を覆う。
「……木花の姫、兄君は酔っているのよ、そのままにしてあげましょう?」
 彼が満足そうに目を細めているのを見て、桜の精は口元を綻ばせた。

 ――この花は咲くのかしらね、木花の姫。
 彼女の呟きは誰にも届かずに、春の風に溶けて消えた。

<終>

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