終章 花笑み 温もりを含んだ風が対屋に吹き込み、ひとひらの花弁を運んでくる。
母屋に入り込んだそれを指先で摘み上げ、咲耶は目を細めた。モノ達が見舞いに来ていたのだが、妻戸を開け放したまま帰ってしまったらしい。
小さく息をついて、いまだに気怠さの抜けない身体で茵を抜け出す。
母屋から廂へと移動しても、つい先日までそこにあった冷気は無くなっていた。
咲耶が交之霊を行ってから、既に十日が経っている。
その間に京はぐっと春めかしくなり、賀茂邸でも桜が咲いていた。
「……咲耶様」
かけられた声に頭を巡らせれば、妻戸の前に月草が佇んでいる。
「モノ達が開け放ったまま帰ってしまったのですね」
彼女はやれやれと言ったように呟いて、咲耶に茵に戻るように促した。
大人しく茵へと戻り、引き寄せられた脇息にもたれる。
茵の上に広げられた巻物を眺めて、咲耶は嘆息した。
この巻物は、咲耶が邸を飛び出す際に雅翠が読んでいたものだ。長々と綴られているのはサクラの民についてで、文末には葦津と署名されていた。
――母が、涼暮に当てた文だったのだ。
咲耶が巻物を読んでいても、涼暮は何も言わなかった。懐かしそうに瞳を細め、少しだけ悲しげに微笑んでいた。
その表情が何も聞くなと訴えているような気がして、咲耶はどうしても彼に母との関係が聞けなかったのだ。
咲耶様、と呼ばれて我に返る。
「お加減でも悪いのですか……?」
心配そうな声に苦笑し、咲耶は首を振った。これ以上心配をかけるわけにはいかない。
邸まで戻った後、咲耶と雅翠は二人揃って寝込んでしまった。
咲耶は霊力と体力、そして生気を極限まで使い果たしていたし、雅翠は傷が癒えたとはいえ大量に血と霊力を失っていた。加えて穢れに触れてしまったのだから、ある意味当然の結果ともいえる。
生気を著しく消耗したせいか、咲耶は身体の回復が遅かった。雅翠はとうに出仕出来るまでに回復したというのに、いまだに伏せりがちだ。
そのせいか、月草は普段以上に甲斐甲斐しく咲耶の世話を焼いていた。
「ねえ、月草」
巻物から顔を上げ、自分の髪を梳いている彼女へと顔を向ける。
「はい、咲耶様」
月草が瞳を細め、僅かに首を傾げた。
その仕草が取り戻した記憶の中の人物とよく似ている事に気づき、懐かしさが込み上げる。
「……月草って、母様みたいね」
思った事を口にして、咲耶は微笑んだ。
「優しくて、温かくて、怒ってくれるの」
面差しも声も、何もかもが違うのに、ふとした瞬間にそう感じるのだ。母と月草の姿が被って、少しだけ寂しくて、懐かしくて堪らなくなるのだ。
咲耶の髪を梳く手をぴたりと止めた彼女に気づかずに、だから、と言葉を続ける。
「……今度から、月草の事、お
義母様とでも呼んでみようかしら」
冗談のつもりだった。そのくらい月草を好いていると分かってもらう為の、細やかな冗談。
ぽとり、と櫛が床に落ちる。
「月草?」
返事がない事を不思議に思って振り向き、咲耶は目を見開いた。
「つつつ月草!?」
月草が泣いている。
縹色の瞳から、ぽろぽろと涙を溢している。
思いも寄らぬ反応を返され、咲耶は狼狽した。
「す、涼暮様! 雅翠!」
二人を探そうと対屋を飛び出し、簀子に出たところで行きあう。
「咲耶?」
内裏から戻ったところだったのか春の香りを纏っている二人を、咲耶は母屋まで引っ張り込んだ。
「つ、月草が……!」
涼暮の袂を掴んだまま訴える。
「す、涼暮様どうしましょう、月草に『お義母様』と言ってみたら泣いてしまって……」
そんなに嫌だったかと不安に思っていれば、くつくつと忍び笑いが降ってきた。
雅翠と二人で首を傾げていると、彼は笑みを滲ませた声で大丈夫だと告げる。
「月草」
その声に、月草が顔を上げた。
彼女にこれ以上無い程優しく微笑んで、彼は一言だけ告げる。
「良かったね」
その瞬間に、月草の瞳からさらに涙が溢れ出した。
「……どういう事です?」
咲耶を見下ろして、涼暮が苦笑する。
「嬉しかったんだよ。月草は、咲耶を実の娘のように思っているから」
その言葉に、咲耶は瞳を瞬かせた。
「そう……なのですか?」
思わず聞き返せば、彼は穏やかな表情で頷く。
「そうだよ、咲耶。
月草だけじゃない。俺も、咲耶を娘のように思っているよ。――大切な、家族のように」
咲耶は彼の娘ではないし、本当の意味で家族では無い。
けれど、その言葉がたまらなく嬉しかった。
だから、咲耶も。
「す……涼暮、様」
袂を掴む手に力を込め、緊張に掠れる声を絞り出す。
首を傾げる涼暮を見上げ、咲耶はぎこちなく告げた。
「涼暮様も、父様みたいです。父様ではないけれど、父様、みたいです」
涼暮が驚いたように目を見開く。
「……うん、ありがとう」
慈しみの込められた眼差しで咲耶を見下ろして、彼は微笑んだ。やっと言えたという思いが胸に満ちて、自然と頬が緩む。
ぐいと腕が引かれたのは、その時だ。
とんと背が何かに触れたと思うと、身体に腕が回された。ぎゅっと力を込めて抱きしめられる。
「雅翠?」
なぜか不機嫌そうな雅翠を見上げ、咲耶は首を傾げた。
「……俺は?」
その言葉にきょとんとする。彼は一体何が言いたいのだろう。
「俺は、って何よ?」
雅翠をじっと見上げれば、彼は不服そうに腕に力を込める。
「……月草は母みたい、涼暮様は父みたいなんだろ」
ぼそぼそと呟かれた言葉を聞き取って、咲耶はようやく彼の言いたい事を理解した。
「雅翠」
彼の腕から逃れて向かい合い、首を傾げて問いかける。
「雅翠は、わたしが雅翠を『お
義兄様』と呼ぶところを想像出来るの?」
なぜだろうか、咲耶には全く想像がつかないのだ。
それどころか、彼を
義兄だと思える日が来るとは思えないのだ。
咲耶の問いに、雅翠が驚いたような表情を浮かべる。
しばしの間考え込んでいた彼は、やがてゆるゆると首を振った。
「……出来ないな。むしろ想像したくない」
「それなら良いじゃない」
間髪を入れずに返し、雅翠から顔を背ける。
涼暮や月草には言えたのに、彼にだけは素直に言えそうに無かった。
「家族ではないし、お義兄様とも思えないけれど、わたしは雅翠の事が嫌いじゃないわよ。
――それで、良いじゃない」
僅かに開いた妻戸の隙間から、薄紅色を纏った風が吹き込んでくる。
ひらりと舞う桜を負って、咲耶は目を細めた。
〈終〉