壱 咲耶 闇夜だった。
路の端にはまだ雪が残り、青白く輝いている。細い月がかかる空では星が弱々しく瞬き、今が真夜中である事を告げていた。
広がる闇と静寂は「人ではないもの」達の存在を思い起こさせる。人が支配していた都は、日が沈むと同時に魔の都へと変貌を遂げるのだ。
桓武帝によりこの地に都が築かれてから二百年以上を経ても、それは変わらない。
そんな夜の都で、ふと「何か」が蠢いた。
大きなもの、小さなもの。飛び跳ねるもの、地を駆けるもの、空を舞うもの。
鬼、物の怪、化生。
彼らはそう呼ばれるモノ達だ。
人には聞こえない声、見えない姿で、モノ達は騒ぎ立てる。列を成して向かってくるその様は、まさに百鬼夜行だった。
夜の都を闊歩していたモノ達は、示し合わせたかのようにある邸の前で立ち止まる。
それを
咲耶は、築地に腰を下ろして眺めていた。
視界の先でモノ達は何かを待ちわびるように門扉の前に佇み、そわそわと落ちつきなく身体を動かしている。
幼子のような仕草に苦笑し、咲耶は口を開いた。
「ここよ」
その声に、モノ達がはっとしたように顔を上げる。
ぱたぱたと手を振ってやれば彼らは咲耶に気づき、飛び跳ねながら歓声を上げた。
「咲耶!」
「さーくや!」
「咲耶ー!」
門の前で飛び跳ね、あるいは門をよじ登り、落ち着きのない様子で騒ぎ立てる。そこにモノらしいおどろおどろしさは微塵も無い。
足を滑らせないように注意しながら立ち上がり、築地の端を蹴る。
邸と路の間に掘られた溝を軽々と超えて、咲耶はモノ達が空けた場所に降り立った。
膝までしかない髪と闇に紛れる色合いの狩衣が宙を舞う。首から提げられた薄紅色の勾玉が、鮮やかな軌跡を描いた。
晒された首筋や草鞋をはいた爪先は白く、あまり日に当たっていない事が分かる。――もっとも、貴族の姫君ならば当然の事ではあるが。
モノ達から送られた拍手を受け流して身体を起こし、髪を背に流す。
寒かったと呟いて、咲耶は身体を震わせた。
暦の上では春だが、まだ寒さは厳しい。何枚か余分に着込んで懐に温石を忍ばせていたが、それでも外で待つのは辛かった。
「……そんなに寒いなら、母屋で待っていれば良かったのに」
小刻みに身体を震わせる咲耶を見て、モノ達が呆れたように口を開く。彼等とは違い、咲耶は人だ。夏の暑さや冬の寒さで体調を崩してしまうのだ。
その度に彼女の家人を巻き込んだ大騒ぎになるのだが、倒れた本人が覚えていないのだから困ったものである。太刀や霊符で脅されながら原因を説明する身にもなって欲しい。あれは本当に恐ろしいのだ。
モノ達のそんな思いを知らない咲耶は、むっとして頬を膨らませた。
「だって、
雅翠がうるさいんだもの。特にここ最近は、狩衣を着ているだけで文句を言ってくるし……」
「それは咲耶が俺の狩衣を勝手に拝借して、毎回汚して、出かける度に寝込むからだ」
文句を言う声に被さるようにして、男の声が響く。
「……雅翠」
一番見つかりたくない相手に見つかった事を悟り、咲耶は顔をしかめた。
抜け出して来た邸を振り返れば、狩衣を纏った男が門の前に佇んでいる。頬を膨らませた咲耶と築地を見比べ、彼は呆れたように呟いた。
「築地を乗り越えたのか」
その言葉に沈黙を返す。彼の言う通り、築地をよじ登って脱出を遂げたのだ。
答えない咲耶を見下ろして、雅翠が目を眇める。
何とも気まずい空気が流れた。モノ達が不機嫌そうな咲耶と額に青筋を立てている雅翠を見比べ、そろそろと距離を取る。力を持たないが故に、彼らは身の危険に敏感だった。
「……咲耶」
深々と嘆息して、雅翠が口を開く。
「頻繁に邸を抜け出すのはやめろと言っただろ。なぜお前は兄の言葉も聞けないんだ」
「兄……?」
胡乱な表情で呟けば、彼は顔を引きつらせた。
「おい、お前は俺を兄だと思っていなかったのか?」
その言葉に、曖昧な笑みを浮かべる。一度も兄だと思った事が無いと、正直に告げても良いのだろうか。いや駄目だろう、そんな事を言ったら、彼は魂魄を飛ばしてしまいそうだ。
賀茂雅翠と、
賀茂咲耶。
同じ邸で兄妹として育てられた二人には、血の繋がりが無かった。