壱 咲耶 賀茂氏を名乗っているが、咲耶はその血を引いていない。十年ほど前に、養父――陰陽寮の陰陽師、
賀茂涼暮に拾われたのだ。
彼が咲耶を養女に迎えた理由には、咲耶が
見鬼だという事があった。
見鬼とは「人ではないもの」の存在を感じ取る力だ。これには鬼や物の怪、化生のようなモノだけでなく、神霊も含まれる。
涼暮に拾われた時、咲耶はひどい怪我を負っていた。周囲は嵐が吹き荒れたのように荒れていたそうだ。
それを見て、涼暮は咲耶と咲耶の家族が何者か――恐らくは人に害を成すモノに襲われたのだと判断した。見鬼は強い霊力を持つ証でもある。モノに狙われやすいのだ。
一昔も前の事となった今では、真実は分からない。咲耶も拾われた当時の記憶は曖昧で、家族の顔すら思い出せなかった。
そんな事情もあり、彼は咲耶を施薬院や貴族の元に預けるのは危険だと考えた。
その点、モノ達に対する術を持っている彼は都合が良かったのだ。
また、当時の咲耶は自分が見鬼である事を理解していなかった。人とモノを区別せずに接していた為、周囲から気味悪がられた。
幼心にもそれを感じ取っていたのか、咲耶も涼暮にしか懐かなかった。
そしてその当時、涼暮は結婚を急かされて辟易していた。これが最大の理由だ。
見鬼の力や霊力は、血筋によって受け継がれる。強い霊力を持つ涼暮は後継者を望まれていたが、本人は妻を娶る予定もその気も無かったのだ。
そこに、身よりの無い見鬼の少女がひょっこりと現れた。しかも自分に懐いた。
要するに、互いにちょうど良かったのだ。
涼暮は咲耶を娘だと偽って引き取り、後継者に据えた。こうして咲耶は、涼暮の元で育てられる事となったのだ。
一方、雅翠は
三輪の生まれだ。三輪氏は奈良の地で
国津神を祀る一族であり、賀茂氏とは遠縁に当たる。彼も並外れた見鬼だった為、涼暮が引き取る事になったのだ。
現在は
陰陽寮に出仕する一方で、咲耶と共に涼暮から陰陽道を叩き込まれている。そのお陰か、
暦生ながら
調伏や
加持祈祷に駆り出されているようだった。
仮にも貴族ではあるが、咲耶は随分と自由に育てられている。勝手に出歩いても怒られた事は無いし、髪を伸ばせと言われた事も無かった。涼暮は咲耶が周囲に迷惑をかけない限り、基本的に口を出さないのだ。
しかし雅翠は咲耶が外出する事に難色を示しており、事ある毎に口を出してくるのだった。
今日も今日とて、彼は説教を始める。
「いいか咲耶、おまえはもう裳着を終えたんだ。いくら夜とはいえ、堂々と顔を晒して都を徘徊するのはどうなんだ。あと抜け出す度に俺の狩衣を勝手に着ていくのはやめろ」
「顔は見られないように気をつけているのだから、良いじゃないの。
狩衣だって、好きで雅翠のものを借りているわけじゃないわ」
彼の言葉に反論し、頬を膨らませる。これには事情があるのだ。
賀茂邸では、家事は涼暮の式――涼暮の配下に下ったモノ達が行っている。彼らは裳着を終えた辺りから、男物の装束を縫ってくれなくなった。
これはゆゆしき事態だった。咲耶は裁縫が不得手で、自分で狩衣が縫えないのだ。
幸いな事に、雅翠の昔の装束はまだ邸に残されている。彼はもう着ることが無いのだからと勝手に拝借していたのだが、ばれていたらしい。
「あのな……」
雅翠が額を押さえた拍子に、艶やかな髪が肩口を滑る。
邸の外だというのに、彼は髪を解いていた。烏帽子や冠を取った姿を見られるのは裸を見られるよりも恥ずかしい事だというのに、全く気にしていない。咲耶でなければ絶叫しているところだ。
雅翠曰く、髷を結っていると頭が引っ張られて落ち着かないらしい。烏帽子を被る時は総髪にしているし、邸に戻れば烏帽子を放り出し、首の後ろで括っている。寝る時は括る事さえしない。
彼も大概常識はずれなのである。
「良いじゃない、雅翠はもう着られないんだから。
……裳着の前までは、男物の装束を着ていても文句を言わなかったのに」
唇を尖らせて、咲耶は不平を溢した。
「それは咲耶が袿を着たまま庭に出て池に落ちたり、木に登ろうとして足を滑らせたりしていたからだろ」
「今だって水遊びをしたり木に登ったりしているのだから、必要じゃない」
さらりと言い返せば、雅翠が嘆息する。
「あの時はまだ幼かったし、裳着だって終えていなかっただろ。そもそも男物を好むというのは、女としてどうなんだ」
根本的な問題を口にするが、彼にそれを問い質す権利は無かった。