陸 還る場所 「――や」
自分を呼ぶ声が聞こえた。
身体の芯は冷たいのに、外側は心地良い温もりに包まれている。
気を抜けば沈んでしまいそうな意識を引き上げて、咲耶は瞳を開いた。
薄紅色に染まる視界の中で、雅翠が自分を見つめている。自分が彼にもたれている事に気づき、咲耶は慌てて身体を起こした。
「雅あ……!」
途端に平衡感覚が失われ、雅翠の胸に頭をぶつける。小さなうめき声が聞こえ、申し訳ない気分になった。
「……生気を分けてやれとは言ったが」
力の入らない身体に辟易としていると、呆れたような声が降ってくる。
雅翠に身体を預けたまま首を巡らせれば、薄紅色の瞳が咲耶を見下ろしていた。
「やりすぎだ」
咲耶の唇を撫ぜ、神が深々と嘆息する。
「え……?」
首を傾げていると、彼は耳元へと唇を寄せてきた。澄んだ吐息が耳朶にかかり、仄かに甘い香りが漂う。
「……引きはがすのが一拍でも遅ければ、今度はお前が黄泉路を辿っていたところだぞ」
冗談ではない。
顔を引きつらせた咲耶から身体を離し、神がくすくすと笑う。
真っ赤な顔で嘆息した咲耶を見下ろして、雅翠が首を傾げた。
平然としているところを見ると、彼は何も覚えていないのだろうか。覚えていられても反応に困るのだが、何となく腹立たしい。
「……咲耶、オニはどうなった」
その問いに、咲耶は顔を上げた。
「……雅翠は、どこまで、覚えているの?」
回らない舌で問えば、彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「……瘴気に呑まれかけて、咲耶に引き離されて、咲耶をオニから庇って……その辺りまでだな。気がつけば咲耶が俺の上に倒れ込んでいて、そちらに神がおわした」
ふむ、と神が頷き、意味深な視線を寄越してくる。
なぜだろうか、そこはかとなく嫌な予感がした。
「良かったな、サクラの子。この男はあんな事やこんな事は何も知らないようだぞ」
含みのある言い方に、雅翠が目を眇める。
「……おい咲耶、何があった。全て偽り無く言え」
頭の上から降ってきた声に、咲耶は無言で顔を背けた。
「おい、咲耶」
無視だ、ここは無視に限る。交之霊まではまだしも、その先を事細かに説明するのは耐えられない。彼が覚えていないのなら良いではないか。
「……咲耶」
彼の手に頬を挟まれ、顔を正面へと向けられる。
剣呑な光を宿した雅翠の瞳に射竦められ、咲耶は硬直した。
「言え。何があった」
唇に吐息がかかる程近い位置で囁かれる。眼差しの奥に熾火のようなものが見えた気がして、身体が震えた。
「……交之霊で穢れを祓って、その後にわたしの生気を雅翠に分けただけよ。そちらにおわします神様は、わたしを手助けして下さったの」
仕方なく口を開けば、彼は疑わしそうな視線を向けてくる。
「……本当にそれだけか?」
その言葉に、咲耶は頬を膨らませた。
「他に何があるっていうのよ」
雅翠を睨みつける。正直に答えたというのに、なぜ疑われるのだ。
咲耶と神を見比べ、雅翠が嘆息する。
支えるように抱きしめられた。嗅ぎ慣れた匂いと温かさに包まれて、心の奥が満たされる。
そうだ、咲耶はこれが欲しかったのだ。
「……良かった」
囁くような声が、つむじに落とされる。
「咲耶が無事で、本当に、良かった」
噛みしめるように紡がれた言葉に、胸の奥が鈍く軋んだ。
「何が良かった、よ」
ぽつりと呟いて、咲耶は雅翠の狩衣を握りしめた。彼の胸元に額を押し当て、瞳を閉じる。雅翠の顔を見たら、泣いてしまいそうだった。
「何も良くないわよ。雅翠、黄泉へと下ってしまうところだったのよ」
血の気を失った彼の顔を思い出しただけで、恐怖が込み上げる。
宥めるように背を撫でられ、堪えていたはずの涙が零れた。ばかあきらと呟いて、咲耶は声を震わせる。
「雅翠のばか。ばかあきら。……怖かったんだから」
雅翠を失ってしまうかと思った。もう二度と言葉を交わせないのかと、彼に触れられないのかと思った。
「……咲耶」
「雅翠なんて嫌いよ。わたしの気持ちなんて何も考えないで、勝手に怪我するんだもの。嫌い。大嫌い」
涙混じりの声で罵ってしゃくりあげる。彼の前では、泣いてばかりのような気がした。
泣きたくないのに、涙が止まらない。幼子のように泣く事しか出来ない。
「雅翠なんて大嫌い……!」
囁くように、その言葉を紡ぐ。
背を撫でる手が止まり、そっと引き寄せられた。身体が密着し、彼の温かさが伝わってくる。
ようやく動くようになった腕を雅翠の首に回して、咲耶は瞳を閉じた。胸の奥の、深い場所が震える。雅翠なんて大嫌いだと、心の中で呟いた。
雅翠なんて大嫌いだ。――けれど、大好きだ。
「……ごめんな、咲耶」
耳朶に吐息が触れる。
「守りたかったんだ。俺は大切な咲耶を守りたかった。――たとえサクラだとしても、咲耶が望んでいなくても。
そのせいで逆に傷つけるなんて、考えていなかったんだ」
ばかあきらと囁く。どうして彼は、そんな当たり前の事に思い至らなかったのだろう。
「……わたしがサクラだって、知っていたの?」
小さな声で、気になっていた事を問う。強ばった身体に気づいたのか、腕に力を込められた。
「この間、聞かされた。咲耶がサクラの民の生き残りだという事も、サクラが特殊な一族である事も、全部」
咲耶はそれを知らないはずだと聞いていたんだが、と彼は呟く。
縋るように、腕に力を込める。
「……思い出したの」
空気を震わせた声は思いの外小さくて、弱々しかった。
「わたしはサクラで、父様と母様と姉様がいて、守ってもらったの。……生きて欲しいと、願われたの」
流れ込んだ力が、記憶の蓋を開けた。
サクラと呼ぶ声が、記憶の靄を吹き払った。
覚えている。優しい声を、大切な者達の姿を、生きてと願われた事を。
「あのね、雅翠。――あの、ね」
深く息を吸う。
言いたい事があった。
聞きたい事があった。
きっと、今しか言えない。素直になれた今しか、聞く事が出来ない。
「サクラの民は、特殊なの。わたし、雅翠や涼暮様と、少しだけ違うの」
雅翠や涼暮の力とは異なるものを、サクラは持っている。
それ故に、見鬼以上に狙われやすい。
「また迷惑をかけてしまうけれど、酷い事を言ってしまうかもしれないけれど。
――わたしはお邸に、帰っても良い?」
涼暮と月草の待つ邸に、雅翠と帰る。それが咲耶の望みで、求めるものだ。
だからこそ、彼の言葉が欲しかった。許しが欲しかった。
彼は咲耶を守って傷ついたから、咲耶はこれからも、彼を傷つけてしまうだろうから。
「咲耶」
優しい声が降ってくる。
伏せていた顔を上げ、咲耶は雅翠を見つめた。
薄紅の花弁が降り注ぐ中、彼は咲耶を見下ろしている。
まっすぐに向けられる眼差しに、心の奥まで絡め取られたような気がした。
滴る程の甘さと優しさが込められた声で、彼は求めていた言葉を与える。
「当たり前だ。一緒に帰るぞ、咲耶」
その言葉に、また視界が滲んだ。
涙を拭った手が頬に添えられる。慈しむように触れてくる感触が心地良くて、咲耶は彼の手に自分の手を重ねて微笑んだ。
ひらひらと、桜の花弁が舞い踊る。薄紅色のそれは二人を染め――
「神域に留まり続けるのも辛いだろう。そろそろお帰り」
驟雨のように、降り注いだ。
*