サ・クラ奇譚 | ナノ




陸 (かえ)る場所
 薄紅色の空間で、ひらりと桜が舞い踊る。
 花に埋もれかけていた雅翠を幹へ寄りかからせ、傍らに座り込んだ咲耶は手を伸ばした。
 指先で触れた頬は白く、ぞっとする程冷たい。口元へ手を当てれば呼気を感じられたが、今にも止まってしまいそうにか細かった。
 負傷した腕を確認すれば、いつの間にか血が止まっている。不思議に思ってまじまじと観察すれば、なぜか傷口は見当たらなかった。
 彼の周囲をひらひらと桜が舞っている事に気づき、顔を上げる。
 神が微かな笑みを浮かべた事に気づき、咲耶は彼が傷を癒してくれたのだと理解した。
 それでも、雅翠は目覚めない。
「雅、翠……!」
 掠れた声で囁いて、咲耶は唇を噛みしめた。
 泣くなと自分に言い聞かせる。雅翠は生きている。まだ黄泉へと下っていない。この神が、引き留めてくれている。
 しかし、たとえ傷が癒えたとしても、奪われた生気と霊力、流した血までは元通りにならない。失ったものは戻らない。
「雅翠」
 彼の名を呼んで、瞳を閉じる。
 囁くように紡いだ言葉は、音にならなかった。
 死なないで。逝かないで。
 わたしを置いていかないで。
「雅翠……!」
 彼の姿が、失ってしまった家族と重なる。自分はあの頃から何も変わっていないのだと、思い知らされたような気分だった。
 結局咲耶は守られてばかりで、守る事が出来なくて、置いて行かれるのだ。
 大切なものを、また失いかけているのだ。
「……サクラの子」
 そっと頬に触れた手が、いつの間にか流れていた涙を拭う。
 甘い香りが控え目に鼻腔をくすぐり、胸が締め付けられた。
 雅翠と似た匂いだと、ぼんやりとする頭で考える。
 温かい、安心出来る香りだ。
「助けたいか?」
 その言葉に、瞳を開く。
 真っ直ぐに咲耶を射抜く眼差しは水面のように静かで、彼が何を考えているのかは分からなかった。
 けれど咲耶の頬に触れる掌は優しくて、かけられる声からは温度が感じられる。
「答えろ、サクラの子。その男を助けたいか、否か」
 ゆらりと、薄紅色の瞳が揺れた。
 雅翠を助けたいと、失いたくないと言えば、この神はその(すべ)を授けてくれるのだろうか。その機会を、与えてくれるのだろうか。
「この場が再び穢れるのは、わたしとしても気に入らない。望むならば、力を貸してやろう」
 掌を握りしめる。考えるまでも無かった。
「……け、たい……」
 掠れた声で答えて、顔を歪める。
「助けたい……!」
 助けたい。死なせたくない。そんなもの、当たり前だ。
 雅翠は咲耶の大切な人で、傷ついて欲しくない相手なのだ。
 咲耶だけが無事でも意味がない。雅翠が生きていなければ意味がない。
 二人で邸に帰れなければ、交之霊を成功させたって何の意味もないのだ。
 唇を噛む。微かな痛みが走り、ほんのりと血の味がした。
「ならば、サクラの子」
 咲耶の瞳を覗き込んで、神は告げる。
「生気を分けてやれ」
「……え?」
 思わぬ言葉に、咲耶は瞳を瞬かせた。
 その拍子に零れた涙を拭って、神が言い含めるように口を開く。
「生気を分けてやれば良いのだ。今ならばまだ間に合う。引き戻す事が出来る」
 その言葉に、咲耶は狩衣の胸元を握りしめた。
「どう、すれば……」
 掠れた声で尋ねた咲耶を見下ろして、神が瞳を細める。
「簡単だ」
 そう囁いて、彼は頬に触れていた手で咲耶の唇を撫ぜた。
「生気を流し込むのは、わたしがしてやる。お前はここをあの男の唇に当てて、道を作ってやれば良いのだ」
 目を見開く。
 唇を唇に当てて、生気を分ける為の道を作る。それはつまり――。
 一気に頬が熱くなり、頭がくらくらとした。真っ赤になって狼狽する咲耶を見下ろして、神が不思議そうに首を傾げる。
「……なぜ赤くなるのだ?」
 生気を吹き込む方法を教えられたからに決まっている。
「息は『生き』に通じる。生気を分けるなら、唇から直接吹き込んでやるのが一番だ」
 言い分は分かる。
「で……でも……」
 雅翠へと顔を向ける。咲耶がそんな事をしたと知ったら、彼は一体どんな顔をするのだろう。彼が目を覚ました時、咲耶はどんな顔をすれば良いのだろう。
「早くしろ、サクラの子」
 咲耶を見下ろして、神が不機嫌そうに顔を歪める。
「言っただろう。その男の魂魄は、すでに黄泉路を辿り始めている。迷えば迷う程、この男は遠くへと行ってしまうぞ」
 その言葉に、咲耶は息を詰めた。
 急がなければ、雅翠は遠くへ行ってしまう。
 迷っていたら、彼を失ってしまう。
 それは、咲耶が最も恐れている事だ。
 雅翠へと手を伸ばす。
「雅翠」
 両手で彼の頬を挟んで、咲耶は囁いた。
「……還ってきて」
 祈るように呟いて、彼の唇に自分のそれを重ねる。思いがけず柔らかな感触に身体が竦んだが、半ば意地のように押しつけた。
 触れた箇所がじわりと熱を帯び、頭の芯が痺れたようになる。
 生気を分ける為の行為だというのに、胸の奥が甘酸っぱい痛みを訴えた。ばくばくと鳴る心の蔵がうるさい。
「しばしそのままでいろ、サクラの子」
 神の声が聞こえた。視界の端で桜が舞い始めた事に気づいた刹那、身体から何かが抜け出ていく。
 唇を重ねる行為を口吸いというのだと思い出したのは、そんな時だ。
 分け与えているはずなのに、奪われるような感覚に陥った。
 生気が彼へと流れていく。咲耶という個が侵されて、曖昧なものになる。
 触れ合っている箇所から吸い上げられ、彼に全てを奪われていく。
 その感覚にぞくりと肌が粟立つのに、心のどこかで物足りないと感じる自分がいた。
 足りない、足りない。これではきっと足りない。
 ぼうとする頭でそんな事を考え、さらに唇を押しつける。仄かに感じられた温もりを逃さないよう、雅翠にしがみつく。
 瞳を閉じれば、目尻に溜まっていた涙が頬を滑った。それが誰かに拭われたのを感じ、うっすらと目を開く。
 虚ろな黒曜の瞳が、咲耶を見下ろしていた。
 雅翠、と声を上げようとした瞬間、今までになく強く奪われる。とっさに身体を離そうとしたが、いつの間に回されていた腕のせいで叶わなかった。
 呼気さえも奪うように貪られ、身体中が熱くなる。
 交じり合う吐息と彼の眼差しに混乱し、咲耶はぎゅっと目を閉じた。逃れたいのに、力の抜けた身体はそれを許さない。
 微かに零れた吐息が、薄紅色の空間に溶ける。
 初めての口づけは血と涙の味がして、少しだけ甘かった。



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