伍 交之霊 流れ込む瘴気と記憶に、身体中が悲鳴を上げる。
盲目の少女が、その身を堕としていく神が、ひたすらに咲耶の脳内を占めていた。見たくない、拒みたいと思っても、未熟な力では叶わない。
「ひと……ふと、み、よ……い、むよ、なや」
時折視界が霞み、その度に身体が痛みを訴える。
耐えきれずに胸元を握りしめた。口の中に鉄の味が広がる。
霊力が圧倒的に不足していた。だから瘴気を押さえきれなくて、咲耶の身体は蝕まれているのだ。
それでも、交之霊を止めるわけにはいかなかった。
交之霊を止める事、失敗する事は、このオニに喰われる事だ。
雅翠を守れないという事で、彼を失うという事なのだ。
「ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ……!」
喉の奥から、掠れた声を絞り出す。
ふと呼吸が楽になったのは、その時だった。
淡く輝く薄紅が視界をよぎり、咲耶へと舞い降りる。
花弁のようなそれがサクラの力だと気づいた瞬間、周囲で薄紅が踊り始めた。
咲耶、と優しい声が脳裏で響く。どうしても思い出せなかった、母の声が聞こえる。
周囲を見渡した咲耶は、離れた場所に薄紅色の物が落ちている事に気づいた。
手を差し伸べれば、それは掌に飛び込んでくる。
ようやくそれを掴んだ咲耶は、懐かしい感触に目を見開いた。
薄紅色の勾玉が、手の中で温もりを放っている。以前身につけていたものと何ら変わりが無いように思えるのに、込められているものが違った。
懐かしい力が身体に流れ込む感覚に、言葉にならない感情が込み上げる。
母様と声にならない声で囁いて、咲耶は顔を歪めた。
覚えている。温かくて優しいこの力は、紛れもなく母のものだ。
縋るように勾玉を握りしめ、唇だけで力を貸してと乞う。
「心苦しく悩むの
禍災を
療し給えや薬師の大神、年を経て身を妨ぐる禍災を祓い賜えよ
天地の神――」
オニに向かって、咲耶はさらに霊力を流し込んだ。
勾玉が励ますように瞬き、その度に薄紅が周囲を彩る。
「血の道と血の道と其の血の道と血の道
復し父母の道」
身体の中で瘴気が蠢いて最後の抵抗を試みるが、それも長くは続かなかった。
「ひふみよいむなや――」
祝詞を紡いだ瞬間に、ぶつりと薄い膜が破れるような感覚に襲われる。
流れ出した清い気が身体から溢れ、一気に瘴気を押し流した。
瞳を閉じる。
深く息を吸って、咲耶は最後の節――
神送の文を奏上した。
「
恐くも此の柏手に大神の
本つ御魂へ帰りましませ」
オニから身体を離して柏手を打つ。乾いた音が神域に響き渡り、吹き抜けた風が髪を揺らした。
一つになっていた力が再び分かたれ、身体の中から抜けていく。
ほうと吐息を溢して、咲耶は瞳を開いた。
「サクラの子」
目の前に神が佇んでいる。萌黄色の髪が宙をたゆたい、薄紅の瞳が細められた。
その瞬間に、頭上でぷつりと音がする。
何事かと顔を上げれば、固く結ばれた芽が解け、
萼が伸びていた。
瞬く間に萌黄色に染まった桜は、次々と薄紅色を纏い始める。いつの間にか現れた蕾が開き、濃密な春の気配が押し寄せた。
はらはらと、桜の花弁が降り注ぐ。
思わず手を差し伸べると、神に掴まれた。
もう一度サクラの子と囁いて、神は雅翠を見下ろす。
「……あの男、黄泉路を辿りかけている」
全ての時が、止まったような気がした。