サ・クラ奇譚 | ナノ




伍 交之霊(まじなひ)
 冷気を含んだ風が吹き抜け、肩までしかない月草色の髪を揺らす。
「大人げないですよ、月草」
 その言葉に、彼女は自分の横に佇む主へと顔を向けた。
「何よ涼暮様、雅翠様の事で怒っているの?」
 頬を膨らませ、乱暴な仕草で髪を掻き上げる。
「……わたくしだって、あの子が大切なのよ。怒るくらい、許されるでしょう?」
 とんと地を蹴って涼暮の正面に立ち、彼女は腰に手を当てて彼を見上げた。
「雅翠様を怒るのは当然よ。咲耶を傷つけて、勝手に守った気になっているのだもの」
 淡々と事実を述べ、それに、と瞳を細める。
「咲耶の事に関してなら、大人げなくもなるわよ。――あの子はわたくしの、かわいい娘なのだから」
 その瞬間に、涼暮の瞳が揺れる。
「……葦津(かやつ)姫様」
 微かな声音で紡がれたその言霊に、彼女はにっこりと笑みを浮かべた。
「懐かしい呼び方ね」
 闇夜にも白い手をついと伸ばし、はらりと舞い降りた薄紅を受け止める。
 温かみの感じられるそれは、彼女がひた隠しにしてきた力だった。
「葦津。わたくしが人として生きていた時の、サクラと呼ばれていた頃の名。
 サクラとして咲耶を守り、息絶えた母の名」
 懐かしささえ感じる昔の名を口にして、瞳を閉じる。
「葦津姫様」
 どこか頼りない声で自分を呼ぶ涼暮が、かつての彼に重なった。
 息絶えた自分を抱き上げて、逝くなと叫んだ若かりし頃の彼に。
 あの日の事は、今でも鮮明に思い出す事が出来る。
 涼暮が駆けつけた時、サクラの民はすでに滅びていた。彼女は愛しい娘の一人と大切な夫を失い、命を失い、それでも最期の力を振り絞ってその場に残っていた。
 もう一人の大切な娘が、咲耶がまだ生きていたからだ。
 魂魄だけで寄り添い、生きてと囁いた。
 涼暮が咲耶を抱き上げた時、心の底から安堵した。
 「愛しい娘の成長を見守りたい」と、叶わない事を願った。
 涼暮はそれを、歪な形で叶えてしまったのだ。
 彼女の魂魄を、彼は木々の精と一つにした。木霊(こだま)として、その場に留め置いたのだ。
 そして式として下し、涼暮が生きている限り、決して消える事のない存在に変えた。
 こうして、彼女は人が憑いた草の精――「憑き草」として生き長らえる事になったのだ。
「咲耶が心配ですか、葦津姫様」
「当たり前でしょう」
 その問いに苦笑する。愛しい娘を心配しない親などいない。
「でもね、涼暮様。わたくしはあなたを信頼しているの。
 あなたが陰陽道を仕込んだ咲耶だもの、すぐにどうこうなるとは思わないわ」
「俺を信頼しているのですか?」
 不思議そうに首を傾げられた。
 当たり前でしょうと肯定すれば、彼は仄かに苦みを帯びた笑みを浮かべる。
「……俺は、あなたを無理やりこの世に留めた人ですよ?」
「わたくしが望んだ事よ。あなたはそれを叶えた」
 二人の会話は、いつも堂々巡りだった。
 涼暮は彼女の存在を自分のわがままだと言い、彼女は自分が望んだ事だと言う。
「わたくしは、咲耶を見守りたいと願った。幸せに生きて欲しいと願った。
 だから涼暮様は、それを叶えてくれたのでしょう?」
「見守る事しか出来ないのに、母だと名乗り出られないのに、俺があなたの願いを叶えたと言うのですか?」
「そうよ。だって、それで良いのだもの」
 何も知らず、彼らに愛されて育つ咲耶を見守っていく。彼女はそれだけで良いのだ。
 きっとその方が、大切な娘を悩ませる事が無いだろうから。
「でもそれでは、あなたが辛いでしょう」
 その言葉に、彼女は瞳を細める。
「涼暮様は優しいのね。今も昔も、変わらないわ。
 ――良いのよ。わたくしは、今でも十分に幸せだもの」
 囁くように告げて微笑む。有無を言わせぬ笑みに、涼暮が口を閉ざした。
「……咲耶と雅翠様、早く帰って来ると良いわね」
 ぽつりと呟けば、そうですね、と返事が返ってくる。
「ところで葦津姫様、先程、雅翠に何を仕込んだのですか?」
 その言葉に、彼女は涼暮を見上げた。
 彼は彼女の手元を――正確には彼女の手元で舞う薄紅の光を指し示して微笑む。
「あら、気づいていたの」
 肩を竦めて、彼女は苦笑した。
「サクラの力を使う事があったら、咲耶だけでは、きっと足りないから」
 有事の際に力になるようにと、呪具を忍ばせておいたのだ。
 涼暮様、と囁いて彼女は笑う。
「あの子達が帰ってきたら、目一杯怒って、それからたくさん休ませて、美味しいものを食べさせてあげましょうね」
 そうして、またいつも通りの日々を過ごすのだ。
 ふわりと風が吹く。
 その風に溶けるように意識を沈めて、彼女は瞳を閉じた。



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