肆 ほころび なぜ、あんな事を言ってしまったのだろう。
なぜ、彼を傷つける事を言ってしまったのだろう。
「雅翠」
彼の名を呟く。涙が頬を伝うのが分かった。
「雅、翠……!」
彼に会いたい。会って謝りたい。けれど、会うのが怖い。
彼を傷つけるのだと分かっていた。言ってはいけないと分かっていた。
それなのに、言ってしまったのだ。彼を傷つけてしまったのだ。
涼暮が、雅翠が大切だからこそ、モノに手を出すのは待って欲しい。
雅翠に何かあったら嫌だ。雅翠が咲耶を大切に思ってくれるのと同じように、咲耶だって雅翠を大切に思っている。
そう素直に告げられたら、きっと彼を傷つける事は無かったのに。
唇を噛みしめ、狩衣の袂で涙を拭う。泣いている時間など無かった。今は、あのモノから逃れる事だけを考えなければ。
まだ潤む瞳を瞬かせて、咲耶は周囲の様子を窺った。
屋根から漏れ入る月の光が、宙を舞う埃を光らせている。
闇が全てを飲み込んでしまったのか、物音一つしなかった。
妻戸を押し、僅かに隙間を作る。
床に腰を下ろしたまま移動し、咲耶は外の様子を盗み見た。
雲が出てきたのか、闇が深まっている。
視界の先には、廃れた庭が広がっていた。
そもそも冬の間は庭に手を入れないものだが、この庭は打ち捨てられたといった風情だ。雪を纏ってたわむ枝は伸び放題だったし、そこここに生える草は観賞用とは思えない。
この邸が、とうに人手を離れたのは間違いなさそうだった。
妻戸の隙間から、しっとりと湿った冷気が流れ込む。
その中に、ふと甘ったるい腐臭が混じった。
背筋を氷塊が滑り落ちる。
慌ててその場を飛び退くのと、妻戸が砕けるのはほぼ同時だった。
爆風と共に、妻戸の破片が降り注ぐ。
腕を交差させて顔を庇った咲耶は、妻戸があった場所へと顔を向けた。
もうもうと立ちこめる埃と土煙の向こうに、不規則に揺らめく影がある。
身を翻すよりも早く突進してきた影に向かって、避けられないと判断した咲耶は印を組んだ。
「朱雀、玄武、白虎、
勾陣、
南斗――」
早口で唱えながら、宙に五芒星を描く。
「――
玉女、青龍!」
モノと咲耶の築いた障壁がせめぎ合い、空気が軋むような音を立てた。
以前よりもモノが力を付けている事に気づき、顔をしかめる。これではあまり保たない。
障壁が悲鳴を上げる。
吹き飛ばされそうになるのを堪えて、咲耶は口を開いた。
「緩くとも不動の心あるに限らん――」
ふと目の前が暗くなる。平衡感覚が失われ、膝から力が抜けた。
構わずに声を振り絞る。
「オンビシビシカラカラシバリソワカ!」
その瞬間に動きを止めたモノを見上げて、咲耶は額に滲む汗を拭った。
意識して深い呼吸を繰り返し、揺れる視界が治るのを待たずに立ち上がる。
咲耶はモノを呪縛しただけだ。状況は何も解決していない。
逃げなければ。
力の入らない足を叱咤し、モノの横をすり抜けた時だった。
『――て』
脳裏に響く声に、はっとして振り返る。
この声の主は誰だ。モノでは無い。
視界の端で、薄紅が舞う。
つられるように視線を向けた先には、庭が広がっていた。
視線が一カ所に吸い寄せられる。
咲耶を呼んだのは、咲耶を求めているのは――
『――てあげて、……くや』
操られるように歩き出す。
呼ばれていると思った。
声が咲耶を、呼んでいる。
簀子を飛び降り、雪の塊に足を突っ込みながら歩み寄る。
そして咲耶は、見つけた。
ざらざらとして乾いた表皮に手を添える。その下で、咲耶があの場に縛り付けたモノと酷似した瘴気が蠢いているのが分かった。
けれど咲耶を呼んだのは、そのもっと奥深くに眠る――
「あなたは――」
掌を這わせる。
表皮を破って食い込んだ釘と
人形を見つけ、咲耶は顔を歪めた。
『桜は、サ・クラ――』
その言葉が、頭の中ではっきりと響き渡る。
桜は、サ・クラ。憑坐。神の降りる木。
だからこの桜の木に宿っていたのは、咲耶を襲おうとするあれは。
「堕ちた
木霊神――!」
モノではなく、神なのだ。
『逢魔時は外に出てはいけないよ、咲耶』
頭の中で、懐かしささえ感じられる声が響く。
『わたし達サクラを探して、堕ちた神が出歩く時だから』
堕ちた神。人に害を成す
荒魂。
もしくは、人に穢されてオニと化す憐れな力無き神。
ああと吐息を溢して、咲耶はモノを見やる。
憐れなオニが、ここにいた。