伍 交之霊 幹に食い込んだ釘へと手を伸ばす。
掌にぴりぴりとした痛みが走り、咲耶は慌てて手を離した。
指先に錆が付着している事に気づいて顔をしかめる。釘が打ち込まれたのは、最近の事ではないようだ。
もう一度手を伸ばし、今度は
人形に触れる。
不格好な形に切り抜かれた人形は、所々破れていた。手触りから、上質な料紙では無い事が分かる。書かれている文字は滲んで読めなかった。
苦々しく思いながら、
呪詛が打ち込まれた木を眺める。
そこにあるのは、桜の大木だった。
幹は抱きついても手が回らない程太く、身の丈も高い。広がる枝にはぽつぽつと茶色い芽がつき、この木がまだ生きている事を告げていた。
はらりと、枝に積もった雪が舞い降りる。風もないのに舞う銀花は、ひどく幻想的だった。
魅入られたように手を伸ばす。
桜はサ・クラ。憑坐。神の降りる木。
けれど同時に、桜は魔性に傾きやすい――
木枯れやすい木だ。ひらひらと舞う花弁には霊魂が宿り、それに惹かれて邪なものが近寄ってくる。不吉なものとして忌まれる事すらある。
幹に触れ、瞳を閉じる。
今更のように、咲耶は自分が何を「知って」いて何を「恐れて」いたのか理解した。
咲耶を襲ったのはオニだ。オニは神で、神を殺せば咎を負う。見鬼とはいえ人にすぎない雅翠が、咎を――祟りを受けて無事でいられるはずがない。
だから咲耶は、オニを調伏する事に反対した。頭のどこかで自分を襲ったのがオニである事を「知って」いて、オニを調伏した先にある祟りを「恐れた」から。
唇を噛みしめ、手の先で波打つ瘴気を睨みつける。
この呪詛さえなければ、と心の中で呟いた。
その刹那、心の蔵がどくんと鳴る。
そうだ、神が堕ちる原因を根本から断ってしまえば良いのだ。そうすれば、調伏する必要がなくなる。祟りから雅翠を守る事が出来る。
掌に意識を集中させる。周囲の物音が遠ざかり、目の前のものしか見えなくなった。
「掛け巻くも
畏き
伊邪那岐大神――」
祝詞を唱えた瞬間に瘴気が激しく波打ち、頭の中でぶつりという音がする。
術を破られたのだと理解して振り向いた時には、オニとの距離は逃れられない程に縮められていた。
サクラと囁かれ、手を伸ばされる。何の事だと問う声は、言葉にならなかった。
縋るように肩を掴まれ、その痛みに息を詰める。身体中を悪寒が駆け抜けた。
血の涙を流す顔が目の前に迫る。
「オンマリシエイ――」
恐ろしい力で引き倒され、真言が途切れる。
ぬかるんだ地に背を押しつけられた。じっとりとした冷たさと共に、痺れるような痛みが広がる。
ぱたぱたと滴が降ってくる。時折霞む視界の中で、オニが涙を流していた。
喉に手がかかる。意識が遠のき、何も考えられなくなる。
不意に、このまま瞳を閉じてしまいたくなった。そうすればきっと、楽になれる。
楽になれるけれど――雅翠は、守れなくなる。
『……死にたい? それとも、生きたい?』
刹那、その言葉が脳裏をよぎった。
知っている声。咲耶にとっては神にも等しい、大切な養父の声。
急に身体が熱くなる。
これはいつの会話だ。咲耶は何と答えたのだ。
咲耶の感情に呼応するように木々がざわめき、銀花が降り注ぐ。
不意に、その光景が朧な記憶と重なった。
目を見開く。
あの日も、桜が鳴いていた。
あの日も、桜は泣いていた。
差し伸べられた手。自分自身にかけた
呪い。
血の繋がった家族を失い、たった一人生き残った咲耶はあの時――。
いくつもの映像が脳裏を駆け抜ける。
その全てを、咲耶は知っていた。覚えていた。
『咲耶』
優しい声。よく似た面差しの姉、大好きだった父、美しい母。
折々に触れて伝えられる「サクラ」の技、里で咲き誇っていた桜。
その全てが朱に染まる。咲耶を抱きしめる腕は徐々に冷たくなり、やがて咲耶は一人になる。
いかないで。
わたしも、つれていって。
叫んでも、彼らは待ってくれない。
『せめて、あなただけ、でも』
涙に濡れた頬を拭って、大好きだった母が微笑んだ。彼女がオニへと手を差し伸べたのを見て、咲耶は必死に手を伸ばす。
まって。
まって、かあさま。
手を伸ばす。届かない。視界が暗くなる。
ああ、そうか。
思い出した咲耶は、仄かな笑みを浮かべた。
目の奥がつんと痛む。
欠けていたものが、ようやく見つかったような気がした。
そうだ。そうだったのだ。
こうして家族は息絶え、咲耶は涼暮に出会い。
咲耶の故郷――サクラの民は、滅びたのだ。
*