サ・クラ奇譚 | ナノ




肆 ほころび
 ああ、この言葉だけは聞きたくなかったのに。
 雅翠の胸元に額を押しつけて、咲耶は瞳を閉じた。
「……咲耶?」
 困惑したような声が降ってくる。
 彼の狩衣を強く握りしめたまま、咲耶は唇から言葉を絞り出した。
「雅翠……の……」
 その瞬間に、涙が溢れる。
「ばか……!」
 悲鳴のように叫んで、咲耶は雅翠を睨み上げた。
 驚いたように目を見開く彼へと、手を振り上げる。
 ぱん、と乾いた音がした。
「ばかばかばか、ばかあきら!」
 雅翠を思いきり突き飛ばし、痛みを訴える手を胸に抱く。
「わたし、は。わたしは!」
 頭の奥が鈍く痛んだ。なぜ、彼は分かってくれないのだろう。
「わたしはそんな事されても嬉しくないし、そうまでして守ってもらう必要なんて無いでしょう!?」
 咲耶さえ無事ならば、雅翠がどうなっても良いはずがない。
 そんな風に守られたって、嬉しくも何ともない。
 それはただの自己満足だ。
 雅翠を失いたくないと言った咲耶の、心を踏みにじる行為だ。
「雅翠はいつも、いつもいつも子ども扱いして! わたしの事なのに何も言わないで抱え込んで!」
 雅翠はいつも、咲耶を大切な妹と呼ぶ。幼子を慈しむように咲耶を慈しむ。
 咲耶はもうとうに裳着を終えたというのに、雅翠の中で咲耶はいつまでも幼子なのだ。
 彼の袂を掴んで付きまとっていた、幼い咲耶のままなのだ。
「それは、咲耶が……」
「わたしが義妹(いもうと)だから? 幼くて何も出来ないから? だから言わないっていうの?」
 言葉が止まらない。思考がまとまらない。涙も止まらない。
 落ち着いて間違いなく彼に伝えたいのに、それが出来ない。
「だけど、だけど――」
 彼は咲耶を義妹と呼び慈しんでくれるけれど。
 大切な妹と呼んで、守ろうとするけれど。
「わたしはもう子どもではないし――雅翠は、本当の兄でも何でもないじゃない!」
 その瞬間に、空気が凍りつく。
 口を滑らせた事に気づき、咲耶は青ざめた。
「あ……!」
 震える手で口を押さえる。自分は今、何と言ったのだ。
 恐る恐る顔を上げ、雅翠へと視線を向ける。
「雅あ……」
 名を呼ぼうとして、咲耶は彼の瞳が薄氷のような危うさを湛えている事に気づいた。
 謝らなければと、頭の中で囁く声がする。
 謝らなければ。彼を傷つけてしまった。触れてはいけない事に触れてしまった。
 けれど、言葉が出てこない。喉の奥が凍りついて、何も言う事が出来ない。
 のろのろと、雅翠の瞳が咲耶を映した。頼りなく揺れる双眸が咲耶の姿を捉え、感情の読めない眼差しが注がれる。
「……咲、耶」
 覇気の無い声が咲耶を呼んだ。身体が震え、歯の根が噛み合わなくなる。
 怖いと思った。
 怖い。雅翠の声が怖い。雅翠の瞳が怖い。
 もし彼に嫌われたら、愛想を尽かされたら、名を呼んでもらえなくなったら。
 それはモノに喰らわれるよりも何よりも、咲耶が恐れている事だ。
 頭が真っ白になった。
 何も考えられない。考えたくない。
 この場から、雅翠から逃げたくてたまらない。
 拒絶の言葉を聞かずにすむのならば、どこでも良い。
「咲、耶」
 雅翠が口を開く。咲耶に何かを告げようとする。
 聞きたくない。聞く事など出来ない。聞くのが怖い。
 それならば――逃げてしまえ。
 茵と衾を踏みつけるようにして、咲耶は駆け出した。
 雅翠の横をすり抜け、簀子に飛び出す。
 その途端に、誰かにぶつかった。慌てて顔を上げれば、深い眼差しに捕らえられる。
「咲耶?」
「涼暮、様……」
 誰よりも安心出来るはずのその声が、今はなぜか怖かった。
 突然簀子まで飛び出してきた咲耶を受け止めて、涼暮が首を傾げる。
「雅翠と、何かあったの?」
 その言葉に、咲耶は涼暮から顔を背けた。
 足早に彼の横をすり抜け、再び駆け出す。
 狩衣が寒風にあおられ、大きくはためいた。忍び寄る冷気に身体の熱を奪われ、爪先にきんと痛みが走る。
 けれど、止まる事は出来なかった。

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