肆 ほころび 厨に駆け込む。
驚いたように自分を見つめる式達の中に月草が混じっている事に気づき、咲耶は焦燥感に駆られた。
雅翠に言った事が彼らに知られたらと思うと、新たな恐怖が込み上げる。
嫌われてしまうのではないか、愛想を尽かされてしまうのではないかと、そればかりが頭を占めた。
草鞋をつっかけ、脱げないようにしっかりと固定する。
「咲耶様? 外出は……」
月草の声が聞こえたが、答える余裕など無かった。
一刻も早く逃げ出したい。拒絶の言葉を、拒絶の眼差しを向けられない場所へ逃げ出したい。
けれど、どこへ。
視線をさ迷わせたその刹那、ひとひらの薄紅が舞う。
厨を飛び出した咲耶は、目を見開いた。
淡く光る花弁のような薄紅が、闇の中へと沈んでいく。光を飲み込んでしまいそうな暗がりへと、誘うように消えていく。
『――』
声が聞こえた。
こちらへおいでと、優しい声が咲耶を呼ぶ。
周囲に紗がかかったように、全ての感覚が曖昧になった。不自然な程に心が凪ぐ。
応えるように手を伸ばす。
自分を押し戻そうとする結界に触れ、咲耶は霊力を流し込んだ。指先にぴりぴりとした衝撃が走る。
意外と堅固なそれに顔をしかめ、さらに霊力を流し込む。
料紙を引き裂くように一カ所に力を込めた瞬間、結界が崩壊した。
顔を上げる。
阻むものが無くなった先で、何かが咲耶を呼んでいた。
『サクラ――』
今行くからと呟く。頭の中で誰かが叫んでいたが、気にならなかった。
門扉を押し開け、足を踏み出す。
その途端に押し寄せる闇に、咲耶は息を飲んだ。縋るように胸元に手をやり、馴染んだ感覚が無い事に気づく。
そうだ、勾玉は砕けてしまったのだと思い出した時だった。
不意に周囲の気が澱み、重苦しくなる。
何かが地をこするような音に、咲耶はようやく我に返った。
曖昧になっていた感覚が戻ってくると同時に、恐怖が身体を駆け巡る。
闇が蠢いた。よりいっそう暗い闇が人の形を成し、ぼうと浮き上がる。
そして、咲耶を襲ったモノが姿を現した。
背筋を氷塊が滑り落ちる。
今更のように、咲耶は自分の愚かさに気づいた。
あのモノは今も咲耶を狙っていると、一歩でも邸を出れば咲耶を襲うと、彼らは言っていたではないか。
喉の奥で言葉がからみつく。今夜程、己の軽率さを呪った事は無かった。
なぜ、何も考えずに結界の外に出たのだろう。
モノが手を伸ばす。にたりと笑みを浮かべ、歯が欠けた口を動かす。
「見ぃつけたぁ」
しゃがれて聞き取り辛い声は、暗い喜びに満ちていた。
邸へと戻ろうとして、しかし戻った先にやはり恐怖が待ち受けている事に気づく。
ああ逃げられないと、咲耶は悟った。
二、三丈ほど離れた場所で、モノが嗤う。今にも崩れそうな身体で進む度に、ぼたぼたと腐った肉が落ちた。
「サ……クラ……」
自分の一部だったものを踏みつけて、モノは咲耶へ近づこうとする。咲耶をサクラと呼び、喰らおうと手を伸ばす。
なぜ自分がサクラと呼ばれるのか、このモノに執着されているのか、全く分からなかった。
逃げなければと、咲耶の中の冷静な部分が叫ぶ。
逃げなければ。さもないと喰われてしまう。
その一方で、咲耶の中の脆い部分が甘い言葉を囁いた。
喰われてしまえ。そうすれば、何よりも恐れている事から逃げ出せる。
感情が咲耶の中でせめぎ合い、身体を動かす事を拒否した。
そうだ。逃げなければ、喰われてしまえば、咲耶は雅翠から逃げられる。彼の瞳に怯える事も、彼の言葉を恐れる事もなくなる。
けれど、喰われてしまえば、雅翠には二度と会えなくなる。
のろのろと腕を上げ、咲耶は印を結んだ。
「災いは
横津まがれるものなれば――」
ここで喰われたくない。彼らを傷つけたくない。
「――
直ある
竪になせば
幸成る!」
叫ぶように唱えた瞬間に、モノの身体が弾き飛ばされる。
目の前が一瞬だけ暗くなったが、構ってなどいられなかった。
逃げろ、と自分自身を叱咤する。
起き上がるモノに目もくれず、咲耶は走り出した。
*