サ・クラ奇譚 | ナノ




参 すれ違い揺れ惑う
「でも、理由は自分でも分からないけれど、雅翠にあのモノを調伏して欲しくないの。
 雅翠だけじゃない。雅翠と涼暮様にだけは、絶対に調伏して欲しくない」
 どんな事があっても、何があっても絶対に。
 だって、彼らがあのモノを調伏してしまえば、もっと恐ろしい事が起きるのだ。
 咲耶の本能はそれを知っていて、彼らに嫌われる事よりも何よりもそれを恐れているのだ。
 俯いて、握りしめた自分の拳を眺める。
「謝らないし、絶対に意見も変えないわよ。わたしは『知らないけれど知っている』の。二人だけは、モノを調伏してはだめ」
 二人でなければ、誰があのモノを調伏しても構わない。そうしてくれたらとさえ思っていた。
「……何で」
 雅翠の声はやはり平静で、何を考えているのか読み取れない。
「何で咲耶はそんなに、俺と涼暮様にモノを調伏してほしくないと言うんだ……?」
 その言葉に、咲耶は弾かれたように顔を上げた。
 今更のように、自分達がただ主張をぶつけ合っていただけなのだと気づく。
 雅翠と言い争う度に涼暮が苦笑していた理由にようやく思い当たり、咲耶は嘆息した。
 瞳を閉じる。これでは彼が納得するはずも無い。
 雅翠はばかでは無い。周囲の意見も聞くし、自分に非があれば素直に謝罪が出来る。
 咲耶はそれを知っているはずなのに、知っていたはずなのに。
「……二人があのモノを調伏したら、恐ろしい事が起きるから」
 小さな声で答える。
「恐ろしい事?」
 訝しげな雅翠の声に、咲耶は目を開いた。小さく頷いてみせる。
「恐ろしい事よ。とても恐ろしい事」
 口の中が乾き、声が掠れた。母屋の中は暖かいというのに、震えが止まらない。
「……あのモノに襲われるよりも、わたしはそれが怖いわ」
 それが具体的に何なのかは分からない。直感のようなものだ。
 けれど陰陽師を、力を持つ者の直感を軽く見てはならない。
 それは幼い頃から涼暮に言い聞かされた事で、実際に咲耶の勘はよく当たった。
 悪い事に関するものは、特に。
「だから二人にだけは、調伏して欲しくないの」
 だって咲耶は、大好きな二人が恐ろしい目に遭うなんて耐えられないのだ。
 言葉を飲み込んで、口を閉ざす。心の中ではいくらでも言う事が出来るのに、直に口に出すのは恥ずかしかった。
「咲耶」
 様々な感情がない交ぜになったような声で、雅翠が咲耶を呼ぶ。
 その時だ。
 不意に手首を捕まえられ、強く引かれた。咲耶の髪が宙を舞い、背に流れる。
 茵から引きずり出されるように腰をさらわれ、頬に柔らかな生地が触れた。
 触れられた場所がじんと甘く痺れ、身体から力が抜ける。
 気が付けば彼に強く抱きしめられて、身動きが取れなくなっていた。
「咲耶」
 耳になじんだ声が囁くように咲耶を呼び、温かい吐息が耳朶に触れる。
 その瞬間に、顔が熱くなった。
 顔だけではない。縋るように雅翠の胸元を掴んだ手も、背や腰に回された腕が触れている部分も、全てが熱い。
「ありがとうな、咲耶」
 優しい声に落ち着かない心地にさせられ、咲耶は視線を泳がせた。
 強く引き寄せられた。自分とは明らかに作りの違う身体を意識してしまい、ますます落ち着かなくなる。
 彼の顔を見る事が出来ず、咲耶は雅翠の胸元に頬を押しつけた。真っ赤な顔を見られるよりはましだ。
「……何が、よ」
 ぽつりと呟く。感謝される理由が分からなかった。
「心配しているんだろう? 俺と、月草と、涼暮様の事を。
 でも上手く言えなくて、恐ろしい事が何なのか分からなくて、それでやめろと言ったんだろう?」
 胸元を握る手に力を込める。
 それだけで、彼は理解したようだった。
 腕に力が込められ、二人の距離がますます近くなる。落ち着かない。ばくばくと鳴る鼓動が、雅翠にばれてしまいそうだ。
 けれど、逃れる気にはならなかった。この距離は落ち着かないと同時に、とても安心出来るのだ。
「ありがとうな。……大丈夫だ、怖がらなくて良い」
 ぽんと背中を叩かれる。涼暮と同じ仕草なのに、彼にされるのはとても恥ずかしい。
「……放しなさいよ」
 頬を膨らませる。
 話はまだ決着がついていなかった。雅翠は「モノを調伏するのはやめる」とは言っていないのだ。
 雅翠の腕に、さらに力が込められる。
「咲耶」
 優しい声。
「……ごめんな」
 優しくて、残酷な声。
 身体が強ばるのが分かった。
「お、恐ろしい事が起きるかもしれないのよ?」
「今だって、咲耶は恐ろしい目に遭っている」
「わたしじゃないわ。涼暮様や雅翠に、恐ろしい事が起きるかもしれないの!」
「分かっている」
 食い下がっても、彼は聞く耳を持たない。
 歯噛みしたいような心境にかられて、咲耶は彼を見上げた。
 目の前にある瞳は温かくて優しいのに、どこか冷たい。
「何度も言っているだろう、咲耶」
 雅翠の瞳が熱を帯びる。
 視線に囚われるような錯覚に陥り、咲耶は息を詰めた。
 モノに感じていたものとは別の恐怖がこみ上げる。
 しかし、彼の腕から逃げ出す事は出来なかった。
「雅、翠」
 咎める声が掠れ、頼りなく響く。
「咲耶。何度でも言うぞ」
 続く言葉を、聞きたくは無かった。
「俺は咲耶が何度止めようが嫌がろうが、あのモノを調伏する。大切な妹に手を出したんだ、二度と目に届かない所に追いやらなければ気が済まない。
 その後に何があるかなんて知ったことか。――俺は、咲耶が無事ならそれでいい」

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