壱 怪しき姫 あやかし姫、あやかし姫。
今宵は何して遊ぼうか。
夜の花見はどうだろう。
桜の姫も、きっと喜ぶ。
我らが姫の、供をしようぞ。
「そうね、そうしましょうか」
闇の中から自分を
誘う声に、彼女は笑みを浮かべた。
***
はらはらと、桜の花が散る。
春を好む友人の邸で最も目を引くあの桜は確か、奈良の都から取り寄せて植えたという木だ。まだ若木ながら見事な枝振りで、慎ましげに首を垂れる様は実に雅やかでもある。
庭では何人かが蹴鞠に興じ、またある者は歌を詠み、酒を酌み交わす者もいる。花見の宴だというのに、花を愛でる者はごくごく少数だ。
「あやかし姫?」
桜を睨み付けるように眺めていた彼は、その言葉に首を傾げた。
友人を流し見れば、彼は赤らんだ顔にしまりのない笑みを浮かべている。
「知らないのか?」
その問いに無言で頷けば、友人は酔いが回っているのか、やや不明瞭な口調で語り始める。
「あれはたしか一月程前だったか、見目麗しい公達がだな、右京のはずれに変わった姫君がいると聞いて、夜に忍んで行ったらしい」
「……ほう」
「その邸で、とても美しい姫君と出会ったそうだ。年は十四、五歳程で、ぬばたまの黒髪、白雪のような肌の姫君で、その声は鶯のさえずるようであり、初雪の
襲が似合いそうな――」
「……とにかく、美しい姫君だったんだな」
さりげなく言葉を切り、続きを促す。「らしい」「そうだ」と言う割には具体的すぎる説明に、忍んでいったのはこいつか、と思った事などはおくびにも出さない。
「そう。とにかく美しい姫君だったんだ」
友人は肯定すると、彼が継ぎ足してやった酒を一気にあおった。酒に弱いというのに、先程から良い飲みっぷりである。
「で、その公達は姫君があんまりにも美しかったから、思わず名を尋ねたそうだ。
そうしたら、かの姫君は『あやかし姫』と名乗った。……人ならざるモノ達に囲まれながら、だ」
「ほう」
ほんの少しだけ興味をそそられた彼は、ようやく桜から視線を外し、友人の方へと身体を向けた。
しかもだな、と友人は続ける。
「姫君は、今、都中の桜の名所を真夜中に彷徨っているんだと。そのせいで、都中で怪異が起きているそうだ」
その言葉に、彼は顔をしかめた。
馬鹿馬鹿しいと呟いて、呆れた視線を向ける。怪異など日常茶飯事だし、そもそもそれは、口さがない噂ではないか。あやかし姫とやらの後をつけて、確かめたわけでも無かろうに。
深々と嘆息して、己の杯を干す。酒の肴としても、与太話としても、面白くなかった。
そうかと呟いて友人の杯に酒をつぎ足せば、彼は何も考えずに飲み干す。
この苦行もそろそろ終わるだろうかと考えながら、彼は視線をさまよわせた。
花見の宴だと言っても、純粋に桜を愛でるわけではない。
官位、
政、派閥。
彼らの間にあるものは純粋な友情ではなく、それらが複雑に絡み合っている。
それを理解しつつ宴を楽しめるような輩は、余程の阿呆だ。
せめてと思って杯を干しても酔えず、ひたすら肴を口にしながら話に付き合う事しか出来ない。
それがさらにこの空間を苦痛に満ちたものにしているが、仕方のないである。
ふと途切れた声に気づいて顔を向ければ、友人は柱にもたれてうたた寝をしている。しばらく眺めているとずるずると身体が傾き、やがて簀子で大の字になっていびきをかき始めた。
優雅さなど欠片もないその所作に呆れつつ、ほっと息を吐く。これで、ようやくゆっくりと桜を眺める事が出来る。
再び桜へと視線を移し、ふと瞳を細める。
はらはらと、桜が舞っていた。
***