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面会時間も過ぎた暗い病室。
カーテンから透ける廊下の照明の光だけが、ぼんやりと室内の輪郭を定めている。
静かな部屋のなか、ベッドの上の彼女は横向きで眠っている。
吐息は規則正しく深く、少しのことでは起きそうにない。
その脇には、白衣を着た男が立っていた。
医師である彼は昼間もそこに居たが、その時まとっていた穏やかな空気の代わりに、今は冷たいほどの静けさをたたえている。
彼は、その側から唯一見えるであろう彼女の後頭部を見つめていた。
かと思うと、手を延ばし、髪に触れた。
つむじのほうから毛先まで流れに沿って。
まるで羽毛を扱うかのように、そっと。
骨ばった指が、ゆっくりと辿ってゆく。
影絵から抜き出したような凹凸のはっきりとした横顔には、長い前髪が影を落としていて、表情は見えない。
ただ髪に触れる手つきは、医師としての事務的なものにはとても見えなかった。
襟元に紛れ込んでいた数筋かを首の後ろに流す。
そのとき彼女が寝返りを打った。
仰向けになってあらわになった顔には、ほんの少し不満そうに眉が寄っていた。
「…おやおや、嫌がられてしまったかな」
そう言う男の口角は、しかし上がっていた。
寝返りで乱れた髪をまた丁寧に直してやる。
「昼間だってひやっとしたんですよ。僕を遠ざけるようなことを言うから」
実際はまるで違っていたのだが。
他の患者に遠慮して、自分の診察を急がせる患者など聞いたことがない。
思い返せば以前、自分はベッドの無駄遣いをしている、と言っていたことさえあった。
小康状態が長く続いているために、かえって自分を軽く考えてしまうのだろう。
心配しなくても、彼女は特別なのに。
頬にかぶさっていた最後のひと房を耳にかけた。
一通り梳いてしまった後も、感触を楽しむかのように髪をもて遊びつづけている。
彼女は本当に、治療を受けているだけだ。
謝る必要も負い目を感じる必要もない。
なぜなら。
原因は、彼にある。
彼に嘘をついたつもりはない。
彼女が「完治」するのはおそらく、自分の彼女への興味が薄れた時か、自分の身に何かあった時だろう。
そしてそのどちらも、今のところ予定はない、というだけだ。
髪を触っていた手がいつの間にか頬に移っている。
二人の距離が近づいてきていた。
まるで覆いかぶさるような姿勢になっていることにも彼は気付いていない。
男はまばたきもせず、熱っぽく見つめつづける。
とうとう吐息がかかるほどの距離になった。
頬にあった手が額にのぼり、前髪を脇へ押しやる。
それでも彼女は目を覚まさない。
彼は空いている方の手で、自分の長い前髪をかきあげた。
顔をさらに近づける。
そして静かに目を閉じ、
額が、触れた。
やがて額を離した海野は、深く息をついた。
どこか満足そうな表情で、十和の耳元に口を寄せる。
「…おやすみ、僕のひかり」
闇の中にとろけて消えた囁きを、彼女は知らない。
End.
→あとがき
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