小説2 | ナノ


▼ しらないことば

 

 主治医は聴診器を置いた。
 一見無表情ではあったが何も言わなかったので、長年の付き合いで患者は悟った。


 まただ。


「分かったみたいだね」

 医師はというと、これまた長年の付き合いで、彼女が悟ったことを読み取ったようだ。
 一応決まりだから。
 そう前置きして、いつも通り小さい声でぼそぼそと告げる。

「十和ひかりさん」
「はい」
「小康状態ですが、また発作が出る可能性が捨てきれない。
 とりあえず経過を見ましょう。
 退院は許可できません、残念ながら」

「…引き続きお世話んなります」
「こちらこそ、引き続きよろしく」

 十和は仰々しくお辞儀をした。
 海野もそれに調子を合わせる。


 頭を上げると、二人は一斉にため息をついた。


「これで何回目よ…」
「いちいち覚えてないな。カルテで数えてみますか」
「…いい」


 彼女の病気は、現代の医学では比較的簡単に治療できる部類に入る。
 病巣を取り除けば再発することもなく、あとは彼女自身の自然治癒力で回復への一方通行。
 のはずなのだが。
 起こるはずのない、症状のぶり返しが、彼女に限ってはなぜか何度も起こるのだ。
 患者も医者も、ため息をつきたくなるのも無理はない。


「10…11…全部で12回、と」
「数えないでいいっつったのに」
「まったく不思議な症例だ。しかも原因も分からない…」

 ぶつぶつ呟いていた海野はふと、カルテをめくる手を止めて十和を見た。

「十和くん、もしかして君、心当たりがあったりしないよねえ」
「原因?」
「そう、原因」

 歯に物が挟まったような言い方をする。

「もしかして、再発する時期なんかが関係しているのかも…」

 症状の再発が起こるのはいつも決まって退院直前である。
 十和は彼をちょっと睨んだ。

「…わざと不摂生したって言うんすか。退院したくないから」
「もしかしたら、なんてね」

 この一見真面目そうな医師は、たまにしれっと冗談を言う。 
 十和はしばらく睨んだままだったが、ある瞬間に突然折れた。

「そうだね。ごめんなさい」
「え?」
「わたくし不摂生をしておりました。申し訳ございません」
「まさか、そんな…」

 しずしずと頭を下げる十和。
 それを見て、常々『医師は感情を出してはならない仕事だ』と言う海野が、目を見開いて驚いていた。
 信じたくない、といった様子でおずおずと確認する。

「…本当かい」




「嘘です」
「そうだろうね」

 二人はころっと態度を元に戻した。

「つうか今のはタチ悪いですよ。ちょっとムカつきました」
「それはすみません。僕も人間だからね、たまには冗談言いたくなるんですよ。
 『患者がそんなことしたらいカンジャないか』」
「うわ、さっぶ!」
「…世代の差だな」
「違うし!ギャグの質だし!」

 十和は時々思う。
 長い付き合いで、ある程度言い合える信頼関係を築けたのはとても良いことだ。
 ただ、いくら親しくなっても慣れないものはある。
 たとえば、この医師のダジャレ。それから服のセンス。
 見目はいいのに。もったいない。


「そもそも、不摂生なんて可能性はとっくの昔に検討済みだったしね」
「そんなことしたら先生もさすがに分かりますよね」
「どうだろうな」
「いや。すぐバレのモロバレでしょ」
「いくら医者でも、生活のすみずみまで見ていられませんよ」
「またまたー、先生なら看破しちゃうんじゃないの?日本の名水100選でしょ」
「『日本の名医100選』ね。
 …僕だってまだまだ未熟ですよ。見逃すことだってあるし」

 海野の声のトーンが少し下がった。

「患者の君に言うのも何だけど、救えなかったケースならいくらでもある」
「だってそれは、先生が難病ばっか扱ってるから」
「言い訳はできない。命はね、替えがきかないんだ。
 僕にもしどんな病も完璧に治せる力があったら、とっくの昔に君を外に出してあげられていただろうね…」

 遠くを見てひとりごとのように呟く。
 たまにこういう内省的なことを彼が言うとき、十和はわざと大きな声を出す。

「先生それ時々言うけどさ。言ってもどうにもならないって。でしょ?」
「…ああ。すみません」

 謝る彼はいつも通り医師の顏に戻っていた。
 世話がやける、と十和は内心つぶやく。


「てか先生、時間大丈夫なの」
「時間?」
「忙しいんでしょ、日本の名水」
「『名医』」
「名医100選、は」
「まあ、医者なんていつも忙しいものだからね」
「こんなとこ来てていいの?」
「こんなところって、君を診療するのも仕事のうちですが」

 意外だと言いたそうに、海野の眉が文字通りの八の字になった。

「…僕は邪魔ってことかな?」
「いや、全然違う」

 十和は少しうつむいた。

「けど、あたしはしばらくほっといても死なないし、でもそうじゃない患者さんもいるし…」

 視線を合わせようとしない彼女を見て、海野は穏やかに笑いかけた。

「もしかして、気を使ってくれてる?」
「…そういう訳じゃないけど」


「こうやって話すことが大事なんだ、君を知りたいんだよ。
 特別だからね」


 十和はほんの少し、緊張した。
 彼に気づかれないよう下を向いたままこっそり息を呑んで、次の言葉を待つ。




「君は、この病気ではとても珍しい症例だ。特別な患者なんです」




「君の状態をよく知ることは他の患者の治療に役立つ。
 だから時間をとる必要は充分にあるし、それを君が気に病む必要はないんですよ。
 今は急を要する患者もいないしね」
「…あっそ」


 彼女は、心からつまらなそうな顔をした。


「先生って仕事バカだね」
「仕事は好きだけど、バカがつく程とは思わないな」
「ううん医者バカだよ。むしろ馬鹿医者?」
「なんだって?」
「つーかもう診察終わったよね?あざーす」
「十和くん?」
「じゃ、あたし寝るからー」

「…十和くん」

 宣言どおりベッドにもぐりこんでしまった十和に、海野は声をかけた。


「大丈夫。時間がかかって不安でしょうが、僕が必ず治します」




 違う。


 彼女は心の中で呟いた。
 そんなことを心配しているんじゃない。

 十和を担当しているのは海野だ。
 腕は確かだし、(ちょっと覇気はないが)誠実に接してくれる。
 医者として申し分ない人だ。

 だから時間はかかっても、かならず彼は治してくれる。
 それを一度も疑ったことはない。


 ただ、そこまで信頼できる関係になったからこそ、
 生まれてしまったジレンマというものが、ある。




「…早く先生の患者じゃなくなりたい」


 口からこぼれた言葉は、ひねくれて形が変わってしまっていた。
 海野の低く落ち着いた声が、そのトゲトゲしさを覆うようにやわらかに降ってくる。


「その意気があれば大丈夫ですよ。焦らずいきましょう」




 違う。


 そんな意味じゃない。 

 あたしが聞きたいのは。
 あたしが言いたいのは。






「…おやすみ」



 あいさつではなく、もう何も話したくないという合図。
 それだけを投げるように発して、ぎゅっと目をつぶった。


 彼女がまぶたの裏に押し隠した言葉を、彼は知らない。





 

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