秋の風はもうすっかり冷えている。ひんやりと冷えた風に吹かれて、真っ赤に染まった紅葉がまた一枚ひらりと紅葉の絨毯の上に重なった。あれほど暑かった日差しはいつの間にか優しい光へと変わり、青々とした緑色は今日も赤や黄色へと変わっていく。鮮やかな紅葉の並木道を見上げながら、私はもう何度も足を運んでいる場所へと向かっていた。

「こんにちは。」

すっかり秋の花々に移り変わった店先から声をかけると、忙しく走り回っていた黄色の髪の人物が眉を寄せながら顔を向けた。初めてこの顔を見た人物ならば震え上がってしまうほどの顔は、わたしにとっては見慣れたものだ。少女ご機嫌ななめな人物…いのさんはわたしの顔を見るなり、あああんたね!と口にしながら、傍らに用意してあった花束をひっ掴む。

「はい、これ!頼まれてたやつ!コスモスでいいのよね!」
「ありがとうございます。いのさんは、今日も忙しそうですね…」
「ホントよ!いのじんのヤツ…この忙しく時に店の手伝いサボって遊びに行くなんて、後でシメてやるんだから!」

恐ろしい顔と固く握られた拳を見て、わたしは引きつってしまいそうになる顔を必死にこまかしながらありがとうございますと口にして、早足で踵を返した。

「じゃあ、なまえさんによろしく!」

そんなわたしの背に忙しなくかけられた言葉にはい、と返事を返して。わたしは可愛い桃色のコスモスの花束を片手に母さんの眠る病院へと向かった。

***

母は昔から花が好きだったのだと思う。父とも押し花の本を作っていたし、わたしも幼い頃から家には花が飾ってあるのが当たり前だった。母は家に花を飾ってはわたしにそれがどんな花なのか、どんな意味を持っているのかを教えてくれた。そのおかげでわたしも他の人に比べて少しだけ、花や花言葉に詳しかったりする。今日お見舞いに持ってきたコスモスは秋桜とも呼ばれていて、桜が大好きな母にぴったりだ。

「…もう、半年。」

母が倒れたのはまだ桜が咲いていた春。そして季節は巡り、今はもう秋になる。そんなことを考え出すとただでさえ冷たく感じる風が更に冷たく、寂しく感じる。ちゃんと病院に通うようになってからもそれなりに時間が経っていて、あまり得意ではない病院の匂いにもほんの少しだけ慣れてしまった…もう少しで、母の病室に着く。半年間変わることのなかった景色を瞳の奥に想像してただ歩みを進めていたわたしだったが、そんなわたしの背に突然、慌てた声が投げかけられた。

「ちょっとあなた!」

その声の主はこの病院の看護師さんで、その慌てようにわたしは母になにかあったのかとぎゅっと両手を握りしめる。

「入院してたあなたのお母さん、急にいなくなっちゃったのよ!心あたりはない?」

まくし立てるように言われた言葉を聞いたわたしは、しばらくの間なにも言葉が出てこなかった。昨日までは何事もなく眠っていた母がいなくなった。それはつまり、母が長い長い眠りから目覚めたということ。

***

母がいなくなったのは本当につい先程のことらしい。病室の近くは一通り探したものの、姿はなかったようだ。もしかしたらどこからか飛び降りたのでは、とまで考えながら顔を真っ青にして母がいなくなった時のことを話してくれた看護師さんに対して、わたしは案外冷静だった。今までのわたしだったなら看護師さんと同じように考えて、やっぱり母の一番はうちはイタチなのだと決めつけていたと思う。けれどわたしはこの半年で様々なことを知って、変わったのだ。母の一番は確かにうちはイタチだったのかもしれない。でもわたしだってそんな父に負けないくらい愛されていて、わたしは…そんな両親に愛されて生まれてきたのだ。
わたしは迷うことなくとある場所の重たい扉を開いた。その瞬間私を包み込んだ秋風は、何故か桜の優しい香りがする。それが答えだった。

「シオン。」

青く晴れ渡る空がよく見える病室の屋上に、その人は一人立っていた。置かれた植木鉢に植えられたコスモスの花が風に吹かれてふわりと揺れる。その声は幼い頃から少しだって変わらない。穏やかで優しくて、わたしが一番大好きな声。すっかり伸びたわたしと同じ淡い色の髪をなびかせながら、桜の香りがする優しい声の持ち主…母は、わたしに向けてにっこりと笑った。倒れた時はいなくなってしまうのかもしれないなんて考えて、あんなに心配したのが馬鹿みたいに思えるほど母の笑みは優しくてなにも変わらない。

「もう…母さんったら。こんなところで何してるの。」

溜め息混じりにそう言ったわたしに対して、母はまるで無邪気な少女のようにくすくすと笑う。そしてわたしの方へすっかり細くなってしまった体を揺らしながらゆっくりと歩いてくると、その両腕でわたしをぎゅっと抱き締めた。

「私が眠っている間に、すっかり成長したのね。」
「…母さんが夢の中で父さんに会いに行っている間にね。」

今まで溜め込んでいたものが一気に吐き出されたような母の言葉に対して、わたしはつい皮肉混じりにそんな言葉を返した。長い間一人娘を放っていたんだから、このぐらいは許して欲しい。皮肉な言葉とは対照的に、縋るようにやせ細った母の薄い背中へ手を回したわたしに、母は苦笑を浮かべながら言葉を続ける。

「だって、あの時は本当にイタチがいたんだもの。」
「嘘。そんな冗談信じない。わたしと父さんを見間違えたんでしょう?」
「シオンとイタチを?」

わたしのひねくれた言葉に対して、母は呆気にとられたように目を丸くした。予想外の母の表情を見たわたしは、つられてえ?と首を傾げながら母を見上げる。わたしのぽかんとした顔を見下ろした母は突然ぷっ、と吹き出すと、大層おかしそうにくすくすと笑い出した。

「確かにシオンとイタチの顔は瓜二つだけれど、イタチはこんなに可愛くない。」
「か、可愛くない…?」
「そう。イタチはいつだって笑ってしまうくらい真面目で、結局一人で先に歩いて行ってしまう。でも…シオンは、いつだって私の傍にいて、隣を歩いていてくれるでしょう?」

この半年で何度も見てきた、母親にしか見せることができない優しい笑みを浮かべながら、母はその手のひらをわたしの頭に乗せた。また仄かに桜の香りが漂う。まるで子供に戻った時のようにあやされて、けれどすっかり満足してしまったわたしは、小さな声で呟かれた言葉を聞き逃してしまった。

「…あんな人だからこそ、私はあの人を好きになって、あの人の傍にいたいと願ったのかもね。」

ひそかな想いをすくい取るように吹いた秋風は、わたしがぼうっとしている間にコスモスの花束さえ攫っていってしまった。せっかくいのさんに用意してもらった花束を台無しにしてしまってがくりとうなだれるわたしに対し、母は相変わらず面白そうにくすくすと笑いをこぼしている。夢のように降り注ぐコスモスの花びらは、まるで母と幼い頃に見た桜のようだった。


まどろむ心臓

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