好きか嫌いか。二つのうちどちらかで答えるならば、"嫌い"だった。大好きな母を簡単に恋する少女へと引き戻し、この世から消えてもなお、母の想いを永遠に奪い続ける父…うちはイタチのことが。
わたしはずっと見てきた。滅多に父のことを話すことのない母が父のことを話す時、瞳に切なげな色を灯しながらもとても幸せそうに微笑む顔を。物心ついた時から父に対してそんな複雑な感情を持ち続けていたわたしだからこそ、初めて父の美しい字で書かれた自分の名前を見た時、とてつもなく心が揺さぶられた。
そしてその字を見てようやく…母が父に想いを寄せ続ける意味がわたしにもほんの少しだけ、わかったような気がした。

***

紫陽花の花が咲き乱れる梅雨の季節が過ぎ、季節は初夏。サスケさんから渡された手紙の封を、わたしは未だに切ることができていなかった。初めて目にした父の字で書かれた名前に感激した思いはどこへやら。ここ数日のわたしは、母の病室で手紙を見つめては溜め息をつき続ける生活を送っている。

「…どんな事、書いてあるんだろう。」

開けてみればすぐにわかるであろう一言をぽつりと呟いたわたしは、そのまま手紙から傍らで眠る母へと視線を移した。先日久々に会った母の姿は相変わらずで、医師の話でもこうして長い間眠ってはいるが、命に別状はないとのことだった。

「…母さんは、成長したわたしにこの手紙を読んで欲しかったんだよね。」

わたしは今、母さんが望んだ"成長したわたし"になれているのだろうか。
縋るように母の白い手のひらを握り締めても、もちろん答えは返って来ない。今の状況のように、悩み始めたらこうしてうじうじし続けるのがわたしの悪い癖だ。言った傍から未熟な自分を再確認して思わず深い溜め息をつく。

「…今日はひとまず帰ろうかな。」

このままこの場所に座っていてもしょうがないと、わたしはようやくその場に立ち上がった。勢いがよすぎたためか、傍らにある棚に並べていた母の私物がドサドサと音を立てて床に転げ落ち、わたしは慌てて再びその場にしゃがみ込む。床に散らばってしまった物は、どうやら数冊の本のようだった。角や中身が傷ついていないかどうか確かめるために、まず一冊の本を拾い上げると、本はどれもなかなかに年期の入っている物だということがわかった。それと同時に今手の中にある本も、まだ床にある本も、一つもわたしの見知ったものではないことに気がつく。

「…母さん、こんな本持ってたっけ?」

母が倒れた時、わたしはその場にいなかった。そのため、母の荷物…つまりこの本を持って来たのは恐らくサクラさんだろう。わたしは一切知らなかったのに、サクラさんが母の病室にわざわざ持って来た古びた本達。わたしはその正体がなんなのか急に気になって、古びた本の表紙を開いた。もう数え切れない程開かれたであろう本の表紙はすっかり癖がついていて、わたしが手を離すとすぐにくたりと落ちる。それと入れ替わるように、表紙で隠されていた本の最初のページが姿を現した。そこに記されていたものは。

「…母さんの、字?」

本の最初のページには、わたしが想像していた活字ではなく、母さんの優しく美しい字が記されていた。

「"たからもの"…?」

母が書いたであろうその一言だけでは到底意味がわからず、続けてページを捲った。そして、わたしはそこでようやくこの本の意味を理解する。

「花と、花言葉…」

本には一ページごとに押し花が大切に貼り付けられ、その傍らにはその花の意味を示す言葉が綴られていた。時には優しく美しい、わたしが見慣れた母の字で。そして時には……わたしがついこの間知ったばかりの、真面目で整った父の字で。
最初に開いた本に続くように、その他の本にも同じように花と花言葉が丁寧に綴られていた。ページを一つ捲るごとに漂う少し古びた香り。その香りを感じる度に母と父が仲睦まじく、時には喧嘩をしながらこの花の本をつくる姿が浮かび、思わず頬が緩んだ。
そうして本のページを捲っていると、ある花に小さな丸が付けられていることに気がつき、わたしはページを捲る手を止める。小さな丸を付けるだけなのに、綺麗な曲線を意識して慎重に書かれたであろう線は、恐らく父のものだ。小さなその花は長い時を得て茶色に染まっていたが、それでも。ほのかな薄紫色を残していた。そしてその花の名は…わたしがこの人生の中で、数え切れないほどに呼ばれたものと同じ響きを持っていた。わたしは押された花を、辿るようになぞる。この花はかつて父と母の手で押されたもの。

「…わたしの、名前。」


花海とねむる

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