鼻につくツンとした薬品の匂い。どことなく薄暗い廊下。繰り返し並ぶ白い扉。
わたしは、病院というものが幼い頃から苦手だった。幼い頃に検診や風邪で母に連れられて来た時には毎回不機嫌になって母を困らせた。忍になり、怪我の治療や健康診断のために一人で訪れるようになってからも、わたしはやはり病院が好きになれなかった。
つい先程いのさんの店で買ったばかりの鮮やかな紫陽花を抱いているためか、すれ違う人達に何度か声をかけられた。その内容は誰かのお見舞いか、だとかどこでそんな立派な紫陽花を買ったの、だとか、とても他愛のないものだ…病院はついさっきすれ違った人がその晩に亡くなってしまうかもしれない場所。病院は人を生かす場所だが、同時に人が死ぬ場所でもある。目に映らなくても病院という空間に漂う"死の気配"が、わたしは苦手なのだ。そして今…この"死の気配"が充満する病院に、母はいる。
わたしの脳裏にふと過ぎるのは"母が死ぬ"というあまりに辛い光景。

「……あ、」

あまりに縁起の悪いことを考えながら歩いていたわたしは、まだ桜が咲いていた頃に見たきりである見知った白い扉を見つけて、思わず声をもらした。
その病室は何の因果か、この病院の中で一番桜がよく見える病室。母が倒れた春の日も桜が窓から舞い降りて、ベッドに横たわる母を桃色に彩っていた。あの日…母が父の名を呼んで昏睡状態になった日から、わたしは母の姿を見ていない。震えてしまいそうな体を誤魔化すように紫陽花の花を持ち直し、わたしは母が眠る病室の扉を開けた。
真っ白い部屋の中には懐かしい花の香りが香っており、まるで母が倒れた春の日 の香りが閉じ込められているようだった。花の香り気をとられていたわたしは、少し遅れて部屋に先客がいるということに気がつく。黒い羽織を羽織った背中に、烏の濡れ羽色の髪。写真の中でしか見たことのない父とよく似た背格好の"彼"に、わたしは一瞬父が目の前にいるかのような錯覚を覚えてしまった。

「…サスケさん。」

しかし、もちろん父はもうこの世にはいない。父によく似た"彼"…父のただ一人の弟であるサスケさんの名を紡いだと同時に、サスケさんは全てわかっていたようにわたしの方へと振り返った。

「久しぶりだな。」
「…はい。最後に会ったのは…今年の春でしたよね。」

サスケさんの落ち着いた声を聞きながら、わたしは同時にサスケさんと最後に会った日…母が倒れた日のことを思い返していた。春のあの頃、長期任務に出ていたわたしに、母が倒れたという連絡を一番に伝えてくれたのはサスケさんだ。それに、サクラさんの話ではわたしが母の病室に足を運ばすにいた間も彼は定期的に見舞いに来ていたらしい。サスケさんが厳しい任務の合間をぬって母の見舞いに訪れている間、実の娘であるわたしはくだらない嫉妬の感情に駆られて全く顔を出さなかった。サスケさんを目の前にするとその事実が紛れもなく浮き彫りにされるようで、わたしは思わず俯いてしまう。一方サスケさんはわたしの心情を見透かしているのか、俯いたわたしには視線を寄越すことなく、代わりにわたしの腕に抱かれる紫陽花の花へ関心を向けた。

「その花は久々に顔を合わせた母への見舞いか?それとも…父への手向けか?」
「…どちらも、です。」

わたしの答えを聞いたサスケさんは何かを考えるように目を細めた後、そっと羽織の中に隠れていた片腕を出した。ふわりと懐かしい香りが漂い、誘われるように顔を上げたわたしは、そこでサスケさんの手に握られているものを見た。

「その花は…」
「"霞桜"だ。任務で探索していた山で見つけた。山は地上とは天候が変わっているから…まだ咲いていたようだ。」

静かに言葉を続けたサスケさんは、ベッドの傍らにある花瓶に母が一番大切にしている花…霞桜を活けた。同時にわたしの瞳にもあの春の日から眠ったままの母の姿が映り、様々な想いを巡らせながら思わず両手を握り締める。
母は、昔からとても美しい人だった。年を重ねても、こうして眠っていたとしても、やはりその美しさは変わらない。触れたら溶けてしまいそうな淡い髪は母の儚い雰囲気を一層際立たせ、大袈裟に言ってしまえば本の中に出てくる花の精のようだ。母が一番大切にしている霞桜は、そんな母にとてもよく似ている…きっと父も同じことを思って、霞桜の花が一番似合うと口にしたのだろう。
わたしが眠っている美しい母の姿を見つめている傍らで、サスケさんもその黒曜石のような瞳を穏やかに細めながら、母を見つめていた。一人思い出を巡るかのようなサスケさんの姿はめったに見ることができない姿であり、わたしは少し意外に思いながら横目で彼の様子を窺う。

「…なまえさんには、幼い頃からとても世話になった。イタチが里を抜けて、ただ一人"うちは一族"として残された他人同然のオレを、この人はいつも気にかけてくれていた。」

ゆっくりと口を開いたサスケさんは、自らの中だけに巡る記憶を整理するかのようにわたしへ告げた。その時、ふとサスケさんから語られた母の姿と、いつの日か母がわたしに少しだけ語ってくれた過去の出来事が繋がるように思い出される。
母はほんの稀に、思い立ったように自らが若かった頃の話をしてくれた。その中で何度か口にしていたのが、父の弟であるサスケさんを、とても"羨ましい"と思っていたということ。

「イタチにとってサスケは、何にも替えることのできない"一番大切なひと"だった。生きる意味だった。イタチの傍にいるとそれが痛い程伝わってきて…私はいつも、サスケを"羨ましい"って思っていたの。」

母がサスケさんに"嫉妬"という感情を抱いていたと知った時、わたしはとても意外に思った。でも、あの美しい母でもわたしが父に嫉妬をするように醜い感情を抱いていたのだと知って、少しほっとした。
サスケさんは母が彼に向けて"嫉妬"の感情を燃やしていたと知ったら、なんと言うのだろう…それとも、もう知っているのだろうか。
意を決して恐る恐る俯いていた顔を上げると、サスケさんの黒い瞳はいつの間にかわたしを真っ直ぐに見つめていた。予想外の視線にわたしは思わず驚きで体が揺れそうになるが、なんとか足を踏ん張ってサスケさんの言葉に耳をすませる。

「それに…なまえさんは、イタチにとって掛け替えのない人だ。それから……お前も。」
「…わたし、も?」

記憶の中の母の言葉とはまた異なったことを口にしたサスケさんに、わたしは思わず固まってしまった。何よりも予想外だったのは…最後に付け加えられた言葉。
驚いて固まっているわたしを真正面から見つめていたサスケさんは、やがて呆れたように溜め息をつくと、そのまま言い聞かせるように言葉を続ける。

「当たり前だろう。イタチにとって、お前はただ一人の娘だ。」
「…でも、父はわたしが生まれる前に亡くなりました。」
「ああ。たが…お前という新しい"命"が生まれるということは知っていた。そして……自分がその"命"に会うことができないまま死ぬということも。」

父の死を語るサスケさんの顔は…とても険しいものだった。わたしは、父が死んだ時の話は母から聞いていた。父は…唯一無二の弟であるサスケさんと闘って死んだのだと。サスケさんの険しい表情の原因は、間違いなくこの出来事のためだろう。
簡単に言ってしまえば、父はサスケさんに殺されたも同然だが…他の誰でもない母がそれを否定していた。父は重い病を患っており、サスケさんと闘いをしなくても近いうちに亡くなっていたのだと。この出来事に関しては、わたしも母と同じ気持ちだった。それに父も平和のためだとは言え、うちは一族を皆殺しにしているのだ。なにが悪いだとか、悪くないだとか…これらの一件は簡単に決めることはできないものだ。
険しい表情を浮かべながらも、サスケさん自身もわたしと同じことを思っているようで、自身の感情を落ち着かせるように一度瞳を閉じた。そしてそのまま自らの懐を探り、"何か"を取り出す。その"何か"は少々古ぼけた封筒で、何年も前に用意された物のようだった。突然取り出された物に疑問を感じることしかできていないわたしに、サスケさんは更に言葉を続けた。

「だからこそ死ぬ寸前…お前にこの手紙を用意した。」
「…て、がみ?」
「これはイタチがなまえさんに、生まれる"命"にと託した手紙だ。そしてオレは、この手紙をなまえさんから託された。」

あの春の日。母はわたしが病室に着く前に、サスケさんにこの"手紙"を託していたのだという…まるで、この状況を予感するかのように。

「なまえさんは、いつかお前が成長した時にこの手紙を渡そうと思っていたそうだ。でも、その前に自分が傍にいられなくなるかもしれないから…その時はオレからお前に渡して欲しいと、そう頼まれた。」
「……」

わたしはそっと目の前に差し出された古ぼけた封筒へ手を伸ばし、触れた。そしてゆっくりと両手で封筒を受け取る。
指先で感じる紙の感触が、妙に優しく感じた。封筒があまりに指先へと馴染み、わたしはまるで押し込むように腕の中にあった紫陽花を花瓶へと活け、封筒をそっと開いた。そこから覗いた薄い紙にまず書かれていたのは、他の誰のものでもない……"わたし"の名前。
初めて目にした父の字で書かれた"名前"に、わたしの瞳には自然と涙が滲んだ。


融けだす透明

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