ちりんちりん。
鈴の音が響く。けれどその音は可愛らしい音ではなく、なにかに強く訴えかけるような強い音、だ。しつこく何度も鳴り響くその音に、車に乗って移動をしていた里見は眉間に深い皺を刻みながら溜息をついた。そんな彼の隣にいるのは花街で撃たれたという信乃と、その信乃の隣で気を失っていたというなまえ。
それでも響く鈴の音。里見は痺れを切らし、苛々をそのまま表すような不機嫌な声で呟いた。

「うるさい。」
「…さ、里見様?」

そんな里見の声に車を運転していた運転手は、自分のことかとびくびくしながら里見の様子を伺う。その様子に里見はいや、と首を振った…そう。彼の声は運転手に言ったわけではなく、眠っている信乃となまえに言ったわけでもない。
里見の耳に響く鈴の音、はそこにあってそこにない、幻。鈴の音は今里見の耳にしか届いていないのだ。
鈴に里見の言葉が届いたのか、鈴の音は先程よりも少しだけマシになった。
この鈴の音の正体……それは鈴に宿る神、鈴彦姫である。そんな神がなぜ今日、こんなにもざわめいているのか。それは言うまでもなく信乃の隣で眠る銀色の髪の少女、なまえに関わっている。
鈴、獣や魔物を追い払って己の生命を守る楯になると同時に、獣や神を引き寄せる合図にもなる特別なもの。その特徴はなまえが持つ銀色の髪、にそっくりだ。
里見は以前、信乃がほまちの山に行く際に、信乃に鈴彦姫のことや銀色の髪のことを尋ねられたことがあった。 まあ、里見はいつもどおりその問いをするりとかわしたのだが。
今は妖刀村雨と同じく行方不明、となっている筈、の"鈴彦姫"が宿る鈴。
まだ、まだいいのだ。里見は自分にそう言い聞かせながら、なにも知らずに眠る二人を見つめた。

***

なにもみえない
なにもきこえない

わたしの目の前で倒れる信乃。わたしはそれに精一杯手を伸ばす。
けれど、とどかない。
わたしは彼の名前を呼んだ。

「し、の…っ!」
「……なまえ。」

名前を呼ぶ声に、わたしははっとして目を開けた。わたしの目に最初に飛び込んできたのは、心配そうにわたしの顔を覗き込む現八さん。どうやらわたしは現八さんに寄りかかって眠っていた、ようだ。周りを見回すと、そこはわたしが先程までいた場所とは別の場所……そ、う。

「しの、信乃は!?信乃はどうなったの…!」

大切なことを思い出したわたしは、無意識に声を張り上げながら現八さんに尋ねた。そんなわたしに現八さんが落ち着け、と言葉をかけて宥めてくれる。

「なまえ、落ち着け。信乃は中で犬神憑きの里見莉芳が看てる。」
「里見…さんが?」
「ああ。」

現八さんの言葉にわたしは少しだけ安心したけれど、先程流れていたたくさんの血の量を思い出すと不安ばかりが溢れてくる……信乃。現実でも、夢の中でも、わたしからの手はいつも信乃に届かない。それが苦しくて悲しくて切なくて悔しくて、改めて自分の無力さを思い知ったような気がした。
無意識にぎゅっと拳に力を込めていたのか、指を離した手のひらには爪の痕が刻まれている。わたしのそんな手を見て、現八さんはもうやめろ、とでも言うようにわたしの手の上に彼の手を重ねる。それは今のわたしにはとてもあたたかいもので、なんだか無性に悲しい気持ちになった。そうしている内にこちらに向かって駆ける足音が聞こえてきた。

「よぉ、荘介。」

乱れた呼吸を整えながら、荘介は階段に腰掛けるわたし達に視線を移した。

「現八…さん?それになまえ!」
「荘介…」

声を荒げた荘介に、わたしはまた怒られるのだろうと俯いたけれど、荘介はわたしの考えとは正反対によかった、とわたしの頭にぽん、と手を置いた。荘介はわたしの頭に手を置きながら現八さんに信乃のことを尋ねる。

「信乃なら中だ。犬神憑きの里見にここへ連れてこられてな。」
「一体何があったんです?」
「…それは俺の方が聞きたい。」

ちらりと二人の視線が向けられて、わたしはあ、と言葉を詰まらせた。確かにわたしも信乃が撃たれた時しか見てないけれど、それでもあの時のことを見ていたのは確かなのだから。口を開こうとしたわたしだったけれど、気を使ってくれたのかすまん、と謝った現八さんはそれより、と話題を変えた…なんだか心配ばかりかけてしまって申し訳ない、な。

「それより、里見に信乃を任せていいのか?」
「俺が呼んだんです。八房なら俺よりはやく信乃となまえの居場所を見つけられると思って……信乃の、血の匂いがしたので。」

荘介の言葉にわたしは再び先程の光景がフラッシュバックした。
首を撃たれて倒れていく信乃。そこから流れる真っ赤な血。そして、おそらく村雨に喰われた、昭市さんの血。
とどかなかった、わたしの手……後からどう思おうが、結果は変わらない。それはわかっている、のに。
隣の現八さんも同じように先程の光景を思い出していたのか、それともまた別のことを考えていたのか。閉じていた瞳を再び開いて、荘介に問いかけた。

「……信乃は、俺達と同じか?」
「…俺達と同じ、なんかじゃありませんよ。もっと恐ろしくて、もっと残酷です。」

不死の身体を持つ荘介と現八さん。
村雨を宿している信乃。
一度死んだ身に再び命を宿して生きている彼らは同じようで、違う。
恐ろしくて、残酷。確かに荘介の言うとおりかもしれない。普段はカラス、なんて可愛らしい姿をしている村雨は、いざとなったら簡単に人なんて殺してしまうのだから。でも、それでも。
わたし達と違う存在でもいい。どんなに恐ろしくて残酷でも、ただ生きて傍にいてほしい……そう考えてしまうわたしは、自分勝手なのだろう、か。

「やっと来たか、荘介。」
「里見さん。」
「三人共、中に入れ。」

わたし達三人の沈黙を破ったのは、扉を開けた里見さん。彼の指示で、わたし達は建物の中へ足を踏み入れた。

「信乃は?」
「花街で撃たれたそうだ。ほぼ即死状態、普通ならな。だが呼吸も脈もない。とりあえず傷はとっくに塞がっているが、この後どうなるのか私にも判らん。」
「し、の…」

あの大量の血で、信乃が危険だということは理解していたけれど…里見さんにもこれからのことがわからない、なんて。予想外の出来事に、わたしは頭が真っ白になった。

「あとは村雨の気分次第だな。これから信乃をどう生かす、か予想はつかないが。」
「う、嘘…」
「そんな…!信乃!!」

どう生かす、か。不安定なわたし達にも容赦なく告げる里見さん。声を荒げた荘介。後悔でいっぱいのわたし…その時。
ぐぐぐぐう…凄まじい音がわたし達の耳に届いた。その音の先には……ベッドで眠っていた筈の、信乃。

「…う…わ。すげー腹減って死にそう…」
「…し、信乃?」

あ、あれ…?わたし達は思わず顔を見合わせた。わたし達の視線の先の信乃は別の意味、で今にも死んでしまいそう、らしい。そんな信乃を見て現八さんが呆れたように口を開く。

「……死体が死にそうって言ってるぞ…?」
「……生意気ですよね…死体のクセに…」
「捨てておけ。」

先程の空気は一変。信乃を心配していた一同は信乃への態度をころりと変えた。
し、信乃が無事でよかった…けれど、こんな起き方をする、なんて。

「し…信乃、もう大丈夫なの?痛いところない?」
「なまえ…痛いとこは、ない。それより腹減りすぎて死にそう……荘ー俺のマドレーヌー」
「………」

そんな信乃の言葉に荘介は、はあ、と深い溜息をつく。わたしも思わず苦笑が出てしまったのだった。


起きた途端腹減った腹減ったと訴えていた信乃は、マドレーヌの代わりに荘介が作ってくれた食事をがつがつと食べていた。その姿は先程まで瀕死状態だった人の様子だとは思えない。

「あえ?ほーへへはあんえおほへははほほへへおお?」
「し、信乃…」
「信乃、口に物を入れたまましゃべらない。」

恐らく、あれ?そういえばお前らはなんでここにいんの?と言いたい様子の信乃。そんな信乃を注意した荘介に、信乃はへーへーと適当に返す…なんだかさっきまであんなに心配していたのが馬鹿みたい。

「返事はちゃんとする。」
「へー」

荘介に注意されても、信乃は相変わらずだ。それを見て思わずはあと溜息をついてしまったわたしに、当の本人の信乃はなんだよ?とわたしを見つめる。わたしはそれになんでもない、と苦笑で答えた……なんだかなあ。

「…お前、さっきまで自分がどーゆ状態だったか判ってんのか?」
「あーやっぱ死んでた?」

現八さんの問いに、信乃は軽く言葉を返した。信乃の様子にわたしと荘介は思わず眉をしかめた。けれど信乃はわたし達の様子に気がつくことなく、言葉を続ける。

「ヤバかったよな、ありゃマジで。オッサンちょっとアブナイ系だったしね。」
「オッサンどころか跡形もないが?」
「村雨が喰ったんじゃね?
あ、そういやなまえ、お前大丈夫だったか?丁度撃たれた時に見えたから。」
「う、うん…わたしは大丈夫、だったけど……」
「そっか、ならいいけど。つかよく迷子にならなかったな。」

…わたしなんかより、信乃の方が比べものにならないくらい大変だったのに。それに、丁度撃たれた時に見えた、なんて。まるで撃たれても自分は大丈夫、なんて言っているかのような口振り。

「花街で騒ぎになると面倒だな。こちらで適当に揉み消しでおくがかまわないか?」
「どーぞご勝手に。とりあえず死体がひとつもないんじゃ、事件になりようがないからな。」

わたしは里見さんと現八さんのそんな会話を耳に入れながら、ご飯を食べる信乃を見つめる。荘介は呆れたような怒っているかのような、なんとも言えない表情で溜息をついた。

「…信乃、ちゃんと判ってるんですか?銃を持ってる相手にむやみに近づくものじゃ…」
「平気だよ。
俺、死なないし。」

信乃の言葉にわたし達の間に沈黙が流れた。
確かに、確かに信乃は妖刀村雨を身体に宿していて。そのおかげで身体も丈夫になって。昔はあんなに風邪をひいて寝込んでいたのにそれも全くなくて。血が流れるような傷もすぐ塞がって。普通の人間の身体であるわたしとは違う……けれ、ど。

「なーんか弱っちいクセに妙な勘違いして強気に出てるオッサンでさ。あのねーちゃんも困ってるみたいだったから。」

信乃の言葉に、眉をしかめていた荘介はぐっと拳を握りながら俯く。張り詰める空気。けれど信乃はそれに構わず言葉を続けた。

「ちょっとビビらせてやろーと思っただけなんだよ。かすり傷のつもりだったんだけどな。ヤバイヤバイ。」

パシン、乾いた音が響いた。
それは荘介が信乃の頬を叩いた音。
荘介に叩かれた方の信乃の頬は赤く染まっていて、荘介が強い力で信乃の頬を叩いたのだということがわかる。

「そ、荘介…」
「なまえは黙っていてください。」

恐る恐る口を開いたわたしだったけれど、わたしの言葉はあたり前のように荘介に弾かれてしまった。わたしはもちろん荘介に返す言葉がなくて、素直に黙ることしかできない。
叩かれた方の信乃は、というと、驚きに目を見開いて荘介を見つめていたが、すぐさま、テメェなにすんだ!!と声を荒げた。そんな信乃を荘介は黙って見つめ返し、荘介は押し殺していた言葉を吐き出すように口を開く。

「今回ばかりは、俺もさすがに愛想がつきました。」
「…だって、本当のことだろ?」

叩かれた頬を押さえながら強気に言う信乃に、荘介は呆れたように続ける。

「信乃が自分の命を粗末に扱うというのなら、俺は信乃の傍にいる意味はありません。いたくもない。」
「俺は死なない。」
「つい五年前までいつ死んでもおかしくなかった人の言葉とは思えませんね。
そうやって驕るのも大概にしてください。聞いていて大変不愉快ですよ、信乃。」

荘介はそう言うと、さっさと信乃が使い終えた食器を持って行って流しに消えてしまった。そんな荘介の背を睨みつける信乃。
わたしはそんな二人をまた、なにもできずに見つめていた。

***

「ご、ごめんなさい里見さん。わたしまでお世話になってしまって…」
「いや、別に構わない。外で面倒事を起こされるくらいなら、こうして部屋で大人しくしてもらっていた方がいいからな。」
「う、はい。」

部屋に缶詰め状態の信乃。信乃が使った食器を洗ったらすぐさま現八さんと出て行ってしまった荘介。取り残されたわたしは今夜、信乃と同じく見琅館にお世話になることになった。里見さんの計らいで信乃の隣の部屋にもしてもらえて、本当に助かった…けれど、それよりも気になることはもちろん。

「あ、あの…信乃は…」
「ああ。完全に怒って、部屋で枕を叩いているぞ。」
「そ、そうですか…」

荘介と現八さんが帰ってしまった後、わたしは何度か信乃に声をかけたのだけど、俺のことはほっとけ、の一点張りで結局まともに話をすることができなかった…実際、話をするなんて言っても今のわたしじゃなにも言えないのだけれども。
やっぱり情けない、わたし。わたしは里見さんの前なのに思わずはあ、と溜息をついてしまった。

「…そんなに信乃が心配か?」
「あ…ごめんなさい。」
「いや、お前といい荘介といい。信乃の周りは信乃に振り回されてばかりだな。」

里見さんの言葉わたしは確かに、と納得してしまって思わず笑いがこぼれた。
信乃の前ではなにも言葉が出てこなかったのに、今ではなぜかスムーズにわたしの心の声が言葉となって現れてくる。

「…でも、わたしはいつもそんな信乃に助けてもらってるんです。だから…さっきの荘介の言葉、わたしも同感してしまいました。」
「ほう。そんなことを信乃が聞いたらさらに機嫌が悪くなりそうだな。」
「ま、まあ…そうですよね。でも荘介もわたしも。信乃がとても、とても大切なんです。信乃がいなくては生きていけないくらい。」

こんなことを考えていると知ったら信乃も荘介も笑うと思うけれど、荘介とわたし、はどこか深いところが似ていると思う。だってわたし達は二人とも、信乃に生かされたから。信乃に救われたから。
わたしの言葉に、里見さんはなにかを考え込むように目を細めた。けれど、当たり前だけどそれだけではとてもなにを考えているのかわからない。

「でも、荘介は信乃を守ることができるけれど、わたしはいつも守られてばかりで。見るのはいつも背中で。今日だって、信乃にわたしの手は届かなくて。わたしは臆病で、弱虫でいつも…」

"ひとりは怖い" "傍にいたい"と誰かを縋ってばかりで。

そこまで言って、わたしははっとして自分の口を押さえた…わたし、なに言ってるんだろう。里見さんにわたしの愚痴を言ったって迷惑になるだけなのに。

「ご、ごめんなさい…わたし…」
「いや、別に構わない。それより、鏡を見て見ろ。」
「え?」

里見さんの言葉のままに隣にあった鏡を見てみると、わたしの目からは涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。里見さんに言われるまでそれに気がつかなかったわたしは、ごしごしと目から溢れる涙を拭う。

「あ、あれ…どうして、わたし。」

けれど、それはどんなに拭っても溢れてきて止まらない。そんなわたしに里見が静かに口を開いた。

「だがそんなお前でも荘介も、信乃も。お前を必要としている。
なら、それでいいだろう?」

里見さんの言葉に、わたしはなにも言えなかった…でも、確かにその言葉はわたしの胸の奥で優しく溶けた。

「なまえ、お前ももう休め。信乃のことは私に任せろ。」

そう言ってわたしの頭を撫でた大きな手のひらはなんだか懐かしさを感じさせる。
わたしの涙は、いつの間にか止まっていた。

***

「あ、…れ?」

わたしが目を開けると、そこは天蓋まで付いたふかふかのベッドの上だった…わたし、なにしてたん、だっけ。
目覚めたてのぼうっとする頭でか細い記憶を辿ってみる。そ、う。わたし、里見さんの前でぼろぼろ泣いてしまって、里見さんがそんなわたしをなだめてくれて。それ、からわたし、疲れて眠ってしまったんだっけ?曖昧な記憶だけど、おそらく里見さんが泣き疲れたわたしをベッドへ運んでくれたのだろう。なんだか迷惑かけてばかりで本当に申し訳ない、なあ……明日お礼を言わなくっちゃ。
ぼうっとする頭でそう考えて、再び重たい目蓋を閉じようとしたその時、隣の部屋からなにかが勢いよくぶつかったような、大きな音が聞こえてきた。その大きな音に、ぼうっとしていたわたしの頭は一気に覚醒する。

「隣…信乃?」

そう。わたしの隣の部屋にいるのは信乃…もしかしたら、なにかあったのかもしれない。そう考えてしまったら眠ってなんかいられなくて、わたしはそのまま隣の部屋へ向かった。

「あの…信乃?なまえだけど…」

流石に夜中に突然人の部屋に押し入る勇気はなくて一応ノックをしてみたけれど、一向に返事は返ってこない…いつもだったら夜に信乃の所に行っても気がついてくれるん、だけど。
不思議に思ったわたしは、とりあえず信乃の部屋へと入ってみることにした。そこは人がいる筈なのになんだか妙に静かで、なんだか少し気味が悪い。明かりもついていない部屋の中を歩くのは、まるで真っ黒な場所に閉じ込められているようで怖かった。でも、それでもわたしは少しずつ足を動かす。その時、わたしは部屋のお風呂場に明かりがついていることに気がついた。それとともに聞こえてくるのは、誰かの乱れた荒い息。
わたしはそれに嫌な予感がして、なにも考えずにお風呂場に駆け込んだ。

「信…乃、」

彼の名前を呼びながらお風呂場に駆け込んだわたし。けれどわたしは、そこで目に飛び込んできた光景にまるで時が止まったかのような感覚を覚えた。
そこには、首から肩にかけて真っ赤な血を流している里見さん。そして、そして。流れる血の色と同じ真っ赤な瞳、そして長い黒髪を持った青年の姿。
里見さんを虚ろな目で見つめていた彼は、お風呂場の入り口で立ち尽くすわたしにその黒髪を揺らしながら視線を向けた。

「し、しの…?」

わたしの問いに彼は答えない。その代わり、痛みを堪えながら肩を押さえる里見さんがわたしになにかを訴えかけるようにこちらを見つめていた。けれど、それにも気がつかないくらい、わたしは黒髪の青年に目を奪われていたのだ。
なにも言われなくても、わかる。
この黒髪の綺麗な青年は信乃だ。
間違いない。どうして、少年の姿のまま止まっていた信乃が突然青年に戻ったのかはわからない。でも、わたしの胸の奥からは嬉しいような悲しいような、怯えるような、不思議な感情が溢れてくる。

「信乃。」

その感情のままに、わたしは彼の名前を呼んだ。信乃はわたしが名を呼んだことに気がついたのか、その真紅の目でわたしの姿を映す。そして。

「…!」

いつの間にかわたしの目の前にいた信乃は、わたしを押し倒して馬乗りになった。強く打った頭が再びぼうっとわたしの意識を霞ませる。そんなわたしを捕らえるように信乃の長い黒髪が顔の横で流れた。わたしは今なにが起こっているのかよくわからなかったけれど、今の信乃、がいつもわたしに笑いかけてくれる信乃ではないことに気がついた。

「なまえ!」

里見さんが珍しく焦ったような声でわたしの名を呼ぶ。それを掻き消すように信乃の低い声がなにかの言葉を繰り返した。

足リナイ 足リナイ

その言葉は信乃から発せられているけれどその響きは信乃のものではなくて。なのに信乃の口から覗く鋭く尖った歯がわたしを狙うように輝く。こわい、そう強く、強く思うのに。相変わらず綺麗な信乃の顔がわたしを吸い込むように迫って、わたしは動けない。

喰ウ

一層低くなった声に、わたしはぎゅうっと目を閉じた。やだ、信乃。信乃、たすけて。矛盾する言葉がわたしの中で響く。わたしの首に冷たい感触が迫った、そのとき。

なまえから離れろ、村雨

まるでなにかがはじけたかのように鳴り響く鈴の音。そんな鈴の音とともに響く高い、女の人の声。
その声でわたしの上にいた信乃はぷつりと糸が切れたかのように意識を失う…信乃。それと同じようにわたしの意識も再びゆらゆらと揺らめき始めた。その時。ふと、わたしの額にあたたかい手のひらがのせられた。それは前にも経験したことがあるような、とても優しくて、ふわふわしていて。なつかしい。

「だ、れ?」

重たい目蓋を必死で開けて、わたしはその手のひらの主を探した。けれどそれを妨げるようにその手のひらは優しい手つきでわたしを眠りへ誘う。

「いかない、で。」

重い重い目蓋が閉じてしまいそうになった瞬間、わたしが呟いた言葉に、手のひらの優しい手つきがまるで不意をつかれたかのように止まった。僅か、僅かだけどその姿がわたしの閉じかけの瞳に映る。
きらきらと床にまで波模様を作るほど長い銀色の髪。それとおんなじ色で縁取られた目蓋。彼女が少し小首を傾げると、それに応えるようにちりん、と鈴の音が響く。きれい、きれいなひと。
でも、やっぱりなつかしい。
彼女は目蓋の重たさに負けて瞳を閉じるわたしに再び手を伸ばした。わたしはそれになにも応えることができない。

なまえ

なんて、なんて優しい音なんだろう。
わたしはそんな音を聞きながら、そのままふわふわのやわらかい意識の奥へと沈んでいった。

***

ちりん、優しい鈴の音が響く。
それに応えるように二人、のお揃いの長い銀色の髪が揺れた。床に流れて波模様を作る銀色はまるで星の海のようにきらきらと輝く。そんな銀色を揺らしながら、ちいさな少女はこれまた小さな声で"彼女"に問いかけた。

ねえ、すずひめさま

ん、なあに?

"彼女"は少女の小さな声を聞き逃さず、少女の可愛らしい顔を覗き込みながら返事をした。"彼女"と目を合わせた少女は、嬉しそうに瞳を瞬かせる。

あのね、わたし、すずひめさまがだいすき

ふふっ。うん。私もお前のことが大好きだよ

じゃ、じゃあすずひめさま。わたしのことをおいてどこかにいかない?

ああ、もちろん。

じゃあね、約束、して…すずひめさま

少女は"彼女"に長い服の裾から小さくて白い小指を覗かせながらそう言った。そんな少女の言葉に、"彼女"も自分の小指を絡ませながら言葉を返す。

約束する。私達はずっと一緒。大好き、ずっと一緒だよ。私の、

***

先程までの騒々しさが嘘のように、信乃の部屋は静寂に包まれていた。部屋の中に響くのは壁に飾られた立派な時計が時を刻む音だけ、だ。
長い長い銀色の髪を床に流している"彼女"は、そんな時を刻む時計を黙って見つめていた。彼女の隣には青年の姿の信乃となまえが優しい夢を見ているかのような、安心した表情で眠っている。二人はまるで寄り添い合うように顔を寄せて、互いの手をぎゅっと握っていた。
時計の秒針が一秒ごとに音を鳴らす。
そんな静寂を打ち破ったのは、肩を血で濡らす里見の声だった。

「なぜここへ来た、鈴彦姫。」

里見が問いかけるが、彼女…鈴彦姫はそれに聞こえないふりをして黙ったままだ。一向に話す様子がない鈴彦姫に里見は諦めたように立ち上がる。その時に血が流れる肩に鋭い痛みが走り、里見は思わず顔をしかめた。ぽたぽた。時計の針の音とともに真紅が滴る音が響く。そんな音に反応したのか、黙り込んでいた鈴彦姫が静かに口を開いた。

「…そんなの、決まってる。この子のためだ。」
「熱心なものだな。なまえはお前との記憶を全て失くしたというのに。本当は、こうやって姿を保つのも難しいのだろう?」

鈴彦姫に向かって里見は容赦なくそんな言葉を吐いたが、彼女はその言葉に少しもうろたえず、むしろ堂々と言葉を返した。小首を傾げる鈴彦姫。鈴の音がまるで幻のようにちりん、と鳴り響く。

「ふふっ。言っていろ、莉芳。私はこの子との約束を守るだけ。この子の願いを叶えるだけ。他のことは…私には関係のないことだ。」

銀色に縁取られた瞳を細めてそう言った彼女はちりん、と鈴の音を響かせると、最初からそこにはなにも存在していなかったとでも言うように一瞬で姿を消した。再び訪れた静寂。

「…約束、か。」

そんな静寂の中、里見が小さな声でぽつりと呟いた。その視線の先は自分の小指。小指は約束の象徴。小指が二つ絡まれば、それはたちまち約束へと変化する。約束、それは約束を交わしたふたり、にしか変えられない特別な決めごと。"約束"という言葉で里見が思い出したのは淡く優しく、けれど遠い、過去の出来事だった。

「馬鹿馬鹿しい…な。」

里見は一人自嘲するように笑って、静かに目を閉じた。


ひとりを択んだあなたの背中
prev next
back