ちりん、鈴の音が響く。
ああ…またこの音だ。何度も夢に出てきて、最近は随分と聞き慣れた音。その音はいつも優しくわたしを呼ぶ。けれど、そのくせどんどん離れていく。必死に音に手を伸ばすけれど、それと反比例してわたしの意識は深い海の底に吸い込まれるように途切れる。そして、次に気がついた時には、なにもない。
吸い込まれたわたしを呼ぶのはもう鈴の音ではなくて、新しい、けれど優しくてあたたかい声。
 

「ぅ、ん…」

眠りの中に沈んでいたわたしは、近くから聞こえてきた賑やかな声で目が覚めた。まだぼうっとする頭できょろきょろと周りを見ると、わたしが眠っている大きなベッドは薄いカーテンで囲まれている…あれ、わたしが里見さんに借りた部屋ってこんなのあったっけ。疑問に思いつつも寝起きが悪いわたしはそのままなにも考えず、見慣れないカーテンを引いて、いつもどおりにベッドを下りた。

「お、なまえちゃん。おはよー」
「なんだなまえ、やっと起きたのか?」
「…尾崎、さん?小文吾さん?」

最初にわたしに声をかけてきたのは優雅にソファーに座っている尾崎さんと、落ち着かない様子できょろきょろ周りを見回す小文吾さん。尾崎さんの隣のソファーで新聞を読んでいた里見さんもわたしが起きたことに気がついたのか、こちらに視線を向けた。そんな彼らに目をこすりながらとりあえずおはようございます、と挨拶をする…その時、ぺこりと少し頭を下げて見えたのは、昨晩里見さんが用意してくれた白い寝間着。目に移ったその寝間着、に、寝ぼけていたわたしの頭ははっと覚醒した。

「あ、あれ?わたし、なんでここに…!?あ、えと、ごめんなさい!みっともない格好で…」
「はあ…とりあえずそこに着替えがあるから、一旦着替えろ。」
「わ、はい…!ありがとうございます。」

とりあえずわたしは、里見さんが指さした方向にあった綺麗に洗濯されてぴかぴかな普段着に着替えることにした。再びベッドに戻ったわたしの耳に届いたのは、里見さんの溜息と尾崎さんの面白がるような笑い声。わたしはなんだか一気に恥ずかしくなって、さっさと着替えよう、と勢いよく寝間着を脱いだ。
普段着に着替えながら、わたしは曖昧な昨晩のことを思い返す…昨晩、は。そう、信乃の部屋に行って、部屋に行ったら里見さんが怪我してて……あとそれと、信乃、が。
思い出すのは青年姿の信乃の姿。どうしてずうと止まったままだった信乃の身体の時が動いたのかはわからない、けれど。
長い黒髪、真っ赤な瞳。そして、大人っぽくなった綺麗な顔。あの時の信乃はわたしの知っている信乃、ではなくて怖かったけれど…恐らくわたしと同じ十八歳の姿の信乃は今まで見てきた信乃とは少し違っていて、すごく……かっこよかった。
なんて、一人でそんなことを思っていたらなんだか顔が熱くなってきた。それに比例して胸もどきどきする…そういえばさっき信乃の姿がなかったけど、信乃、は十八歳の姿のまま、なのかな。改めて考えたら更に顔が熱くなってきて、わたしは気を取り直すためにぶんぶんと頭を横に振った。

「もう、なんなの…わたし。」

最後に髪の毛をいつもどおりに結って、赤い頬を押さえながら、わたしはベッドのカーテンをくぐった。それと同時にぱたぱたとこちらに近付いてくる足音。

「なーこの俺っていくつ位の歳だと思うー?」
「っわ…!」

突然扉から現れたのは先程まで不在だった信乃。まだ見慣れない長い黒髪が揺れて、わたしはびっくりしてカーテンの奥に引っ込んだ。カーテン越しに信乃を入れた会話が聞こえる。

「いくつって…」
「十八だろう?」
「ウソだろ?何か十八にしちゃ小さくねー?」
「ダレ基準で言ってんのかなー?」
「小さいも何も、お前は昔から小さいだろう?」

自分の背丈を気にしている様子の信乃に周りは容赦なく言葉を浴びせる。最後の里見さんの言葉に信乃は我慢できなくなったのか、何を!?と声をあげた…信乃、そんなに気にするほど背、低くないと思うけどなあ。

「しーちゃん、そんなに背が気になるならなまえちゃんと比べてみたら?」
「なまえと?」
「え!?」

突然出てきたわたしの名前に、わたしは声をあげてしまった。隠れなきゃいけないわけではないけれど想像以上に大きな声を出してしまって、はっと口を押さえる。けれどそんなことも意味なく、信乃はなまえ起きてるのか?なんてわたしに声をかけながら薄いカーテンを開けた。

「し、信乃…」
「なまえ!見ろよこの姿!」

信乃の見慣れない姿にうろたえているわたしとは正反対に、信乃はいつもどおり無邪気に言葉をかけてくる。わたしの肩に置かれた信乃の大きな手とわたしより高い目線に、熱が引いてきていたわたしの頬は再び熱くなった…もう、どうしたの、わたし。

「よかったじゃないしーちゃん。なまえちゃんよりは背、全然高いよ?」
「なまえより小さかったら流石に不味いだろう。」
「里見!お前はいちいちうるせぇんだよ!!」

再び里見さんに反論する信乃だけれど、わたしはそれどころではなくて自分の熱くなっている頬を必死で仰ぐので精一杯だった。そんなわたしを見た尾崎さんはなにかを悟ったようにくすくすと笑う。こうなっている原因の信乃まで、わたしの顔を見てどこか具合悪いのか?なんて尋ねてきた。それに大丈夫!と頬を押さえながら答えると、信乃はならいいけど、と不思議そうに首を傾げる。心配してくれた信乃には悪いけれど、理由が理由なんだ、もの。

「でもこの姿、やっぱりいいな。なまえが近いから触りやすい。」
「な、なにそれ…!」
「だってお前、よく転ぶし。今は偶にだけど泣くし。お前の世話をやくには背が近い方が便利なんだよ。」

呑気にそんなことを言いながら、信乃はぽんぽんとわたしの頭を撫でた。よくわからないまま信乃にわしゃわしゃと撫でられていたわたしだけれど、そういえばこういうことがとても久しぶりだということに気がつく。信乃とわたしの背が同じだった頃は、よく信乃がわたしの頭を撫でてなだめてくれたけれど、わたしが信乃を追い越してしまってからはわたしがしゃがまなくきゃ信乃はわたしの頭に手が届かなかった、から……そう考えると、十八歳の姿の信乃はやっぱりいいなあ、なんて思った。

「あ、そうだ小文吾。」

わたしの頭を撫でていた信乃は、ふとなにかを思い出したように小文吾さんに声をかけた。信乃の声に、部屋の隅で青い顔をしながら頭を抱え込んでいた小文吾さんははっと顔を上げる。

「コレ食っていい?」
「…?」

信乃が指さしたのは机の上に置いてある、綺麗な風呂敷に包まれた重箱。小文吾さんが持ってきてくれたのだろうか。
小文吾さんのおう、なんてぎこちない返事を聞き、信乃は早速風呂敷に手をかけた。そんな信乃にこれどうしたの?と尋ねると、古那屋の女将さんが怪我をした信乃を心配して作ってくれたものだということを教えてくれた…美味しいだろうなあ、なんて考えながらわたしはごくりと唾を飲み込む。そんなわたしに信乃がなまえ、とからかうように声をかけてきた。

「お前も食えば?腹減ってだろ?」
「え?で、でも…いいの?」
「いいだろ別に。つか貰った俺がいいって言ってんだならいーの。あ、小文吾!古那屋の女将には後で礼に行くって言っといて。」
「あ、ああ。わかった。」

信乃に言われてなんだかぼうっとしながら返事をした小文吾さん。さっきから落ち着いてないみたいだけれど、どうしたんだろう。そう疑問に思ったわたしだったが、信乃からほいと箸を渡されたので、とりあえず今は食事をいただくことにした。女将さん特製の、立派な重箱に入っている食事に、信乃はとても嬉しそうな表情でイタダキマスと手を合わせた。それにわたしも続く…一時は本当にどうなるかと思ったけど、どんな状態であれ信乃が元気なのが一番、だ。早速美味しそうにお肉を頬張る信乃に、わたしも笑顔になった。


わたしと信乃が古那屋からの素敵な差し入れを頬張っていると、ふとソファーに座って新聞を読んでいた里見さんが立ち上がった。彼は新聞を置くと同時に腕の時計を確認して、わたし達に声をかける。

「さて。私は少し出てくるが、信乃、お前は当分ここで大人しくしていろ。」
「え!?何で?だってこの俺の晴れ姿をゼヒ浜路と荘介に見せねーと!!」
「却下だな。」

ぴしゃりと言い放つ里見さんに、信乃は不機嫌そうに眉をしかめる…外側はすっかり大人になってしまったけれど、中身はいつもの信乃のままみたい。そんな信乃にまあまあ、と言葉をかけていると、里見さんは次にわたしの名前を呼んだ。突然のことでびくりと肩を揺らしたわたしに構わず、彼は言葉を続ける。

「お前は私と一緒に来い。」
「え、え…!?わ、わたしがですか…?」
「そうだ。」

なにか問題でもあるか、なんて顔でわたしを見つめてくる里見さんに、わたしはわかりました、と返事をしてソファーから立ち上がる…なぜ、わたしを連れて行くんだろう。里見さんのことをよく知っている尾崎さんでさえわたしと同じ疑問を感じたようで、なにか考えるように首を傾げている。それに対して信乃はしかめていた眉をさらにしかめて、不機嫌丸出しだ。

「おい里見、なまえ連れてってどうするつもりだよ。」
「別に危険なことをさせるわけじゃないから安心しろ。」

里見さんはそう言うけれど、信乃の眉間の皺は消えるどころか、さらに深くなってしまった。危険なことをさせるわけじゃない、って。ならわたし…?そんなことを考えていると、突然横から八房が出てきて、里見さんに寄り添った。八房の姿を見て尾崎さんがあれ?と不思議そうに里見さんに尋ねる。

「八房、ここに置いていくんじゃないの?」
「事情が変わった。」
「何だよ!?なまえ連れくんなら俺もいいじゃねーか!俺も外出るー!!」
「し、信乃…」
「喧しいぞ信乃。」

声を上げた信乃を、里見さんは再び突き放した。その声に立ち上がって反論していた信乃の声も止まる。

「これ以上無駄に力を使われては困る。尻拭いも楽ではないんでな。」

その言葉でわたし達が真っ先に浮かんだのは、昨日のこと、信乃が撃たれた事件。普通だったら、あんな出血があったら撃たれた人は死亡と判断されて当たり前。それに、信乃自身もとても危険な状態だった。もし里見さんの協力がなかったら事件は大事になっていたかもしれないし、信乃の身も危なかったかもしれない。その事実に信乃もぐっ、と黙ってしまった。

「…別に、俺そんなの頼んでないし…!!」

俯きながら弱々しく言い返した信乃を、今度は小文吾さんが宥める。そんな信乃に里見さんは言葉を続けた。

「頼まれずともお前が原因の面倒事は舞い込んでくる。他人には手がつけられない。それだけ厄介だということだ。少しは自覚しろ。」
「…」

彼の言葉で、弱々しく俯いていた信乃がきっ、と目を鋭くさせて里見さんを見つめ返した。信乃の瞳を見た里見さんは、そのまま信乃に背を向けると付け加えるように口を開く。

「さもないと、お前はまた大切なものを傷つけるぞ。」
「里見さん、」

里見さんの言葉に信乃が目を見開く。
それと同時にわたしは昨日の夜中の出来事を思い出して、止めるように彼の名前を呼んだ。里見さんはなにか言いたげに視線を向けてきたけれど、わたしはそれに気がつかないふりをする。そんなわたしに呆れてしまったのか、里見さんは小さくはあ、と溜め息をこぼしながら歩き始める。わたしはそんな彼の背を少し遅れて追いかけた。

***

…四家の屋敷を出発してから、どれくらいの時間が経っただろう。里見さんに連れられるまま車に乗ったわたしは、なにも喋らない里見さんの隣で、俯きながら車に揺られていた。
なまえ、ふと里見さんがわたしの名前を呼んだ。その声にわたしは俯いていた顔を上げて里見さんを見つめる。その顔は相変わらずなにを考えているかわからなくって、一人で考え込んでいるわたしがなんだか馬鹿みたいに思えてしまった。

「…信乃に知られたくないんだな。自分が村雨に傷つけられそうになったこと。」
「…!」

最初の一言でわたしの心の中を全て見透かされて、わたしは思わず目を見開いた。ぎゅうっと力が入る手のひらで、スカートにいくつかの皺が寄る。あからさまに動揺しているわたしに対して、里見さんは黙ってわたしの答えを待っているようだった…この状況は、昨晩と同じだ。昨晩も、信乃のことで不安でいっぱいだったわたしの話を里見さんは黙って聞いてくれた……なんだな情けなくって涙がこぼれそうになるけれど、今日はぎゅうっと目を瞑って涙をこらえた。

「だって、そんなことを信乃に知られたって意味ない…もの。」
「確かに…アイツが昨晩のことを知ったら後悔するだろうな。守るために手に入れた力で、守りたいものを傷つけたのだから。」
「なら…」
「何故先程、あんなことを言ったのかって?」

里見さんがさっき、信乃に言った言葉。

さもないと、お前はまた大切なものを傷つけるぞ

あの言葉と同時に見開かれた信乃の瞳…わたしは、わたしを傷つけそうになった、という事実で、信乃を傷つけたくない。だって、村雨のことは信乃自身が悪いわけじゃないんだもの。
心の中でそんなことを考えていると、再びわたしの考えを見透かしたように里見さんが溜め息をついた。

「…信乃がそんなことを望むと思うか?」
「…」

溜まり込むわたしに里見さんが問いかける。その問いに、わたしは再びどきりとした。スカートの皺がさらに広がる。
わかってる、信乃はこんなこと望まない…これは私の自己満足、なの。深く俯くわたしに、里見さんはまったく、とこぼしてまた溜め息をついた。

「なまえ、」
「は、はい…」

再び凛とした声で名前を呼ばれて、わたしはびくりと肩を揺らした。今度はなにを言われるんだろう、と身構えてしまうわたしに、里見さんが呆れたような視線を送ってくる…だ、だって里見さんの言葉、返すのが難しいんだもの。一人でそんなことをこぼしていたわたしだったけれど、彼の口から出てきたのは今までの話とはまた別のことだった。

「昨晩、鈴の音を聞いただろう?」
「…え?鈴の、音、ですか?」
「そうだ。」

想像とはまったく別の問いかけに、わたしは思わずぽかんとしてしまう。そんなわたしに里見さんが質問に答えろ、とでも言いたげに視線を送ってきたので、わたしははっとして口を開いた。

「えと…鈴の音なら聞きました。昨晩、と言わずに最近夢でも鈴の音が聞こえてくるんです、よね。」
「夢、か。」
「里見さん、なにか知っているんですか…?」
「いや、」 

わたしの問いを曖昧に濁した里見さんは、何かを考え込むように顎に手を当てて、黙り込んでしまった…なんだかじれったい。それにして、も。何故里見さんが鈴の音のことを知っているの?
そんな疑問を感じて里見さんの方を見たけれど、彼がわたしに答えをくれる気配はない……鈴の音。わたしを優しくどこかへ導くような、不思議な鈴の音。それと一緒に思い出すのは、昨晩わたしの名を呼んだ優しくて懐かしい、女のひとの声。彼女は、確かきらきらと瞬く色、で…?
そこまでは思いだせるのに、なぜかそこからがよく思い出せない。昨日のことなのに、どうして。思い出そうとすると、頭がなにかにかき回されるような感覚がして、なんだか気持ちわるい。
 
「…なまえ?」

わたしの異変に気がついた里見さんがわたしに声をかける。わたしは頭がぐらぐらして、思わず自分のこめかみを押さえた。その時に視界に入った小指。絡める指。約束を交わす指。

約束、して…

「やく、そ、く?」

誰と?

「なまえ!大丈夫か?」
「…あ、」

里見さんに声をかけられて、こめかみを押さえながら俯いていたわたしははっとして顔を上げた。いつの間にか、頭をかき回されるような感覚は消えている。なんだったん、だろう。一人、疑問を感じで首を傾げるわたし。そんなわたしに里見さんがなにか確信したように言い放つ。

「…忘れろ。」
「え…?」
「鈴の音のことは、考えるな。いいな?」
「は、はい…」

里見さんはそう言ったきり、再び黙ってしまった…鈴の音。里見さんは忘れろ、と言ったけれど、鈴の音色はわたしの頭の中でまだ鮮やかに鳴っていた。

***

「おい、なまえ。」
「…ん。あ、はい…!」
「下りるぞ。」

里見さんの声で少しの間眠っていたわたしは、はっと目が覚めた。里見さんが車を下りたので、わたしも急いで追いかける…少し眠ったからか、先程まではざわざわして落ち着かなかった気持ちも少々落ち着いた、と思う。まだ気になることはあるけれど、今はそれよりもこれからの目的地の方が大事だ。
里見さんの後を付いて歩く道は、前にも信乃と荘介と一緒に通ったことがあるもの。

「さ、里見さん、わたし達が行く所って…」

わたしの問いで里見さんがこちらに視線を向けたと同時に、わたし達の前に見慣れた建物が現れた。教会らしくない所々割れた壁。草木が生い茂る庭…そう、この場所は昨日も来た例の旧市街の教会である。一見いつもどおりに見える教会だけれど、周りは"人成らざるもの"の気配が漂っていて、わたしは少し足が竦んだ。けれどその"人成らざるもの"の気配は、どこかで感じたことのあるような気配、様々な想いが混じり合った気配でまるで人間のよう。そんな気配にも動ずことなく入り口に向かって歩く里見さんの後を追って、わたしが見たものはきらきらと輝く金色。その金色に、わたしは見覚えがあった…琥珀さん、だ。まさか里見さんは彼女がいるからわたしをここへ連れて来たのだろうか。

「教会の人間が第三者に自分の十字架を渡すのには特別な意味がある。
貴方は何度もそれを血で穢してしまった。何か、と取り引きをして。」

教会の中には入れずに、入り口でこちらに背を向けて立っている琥珀さん。どうやら彼女は誰かと話をしているようだ。

「貴方の望みに力を与えたのは信乃ですが。」

その声とともに教会の中で琥珀さんと話をしていた人物の顔が見えて、わたしはあ、と小さく声をこぼした。琥珀さんと話をしているのは荘介…昨日、あれきり姿を見ていないと思ったら、ここへ来てたの、ね。

「…それで、お前の望んだものは手に入ったか?」
「里見さん、それになまえ…」

里見さんの声に、入り口にいた琥珀さんと荘介はこちらに視線を向けた。琥珀さんはゆらりと髪を揺らしながらか細い声で里見さんに尋ねる。

「………どうして、助けてくれなかったの?」
「二年前の北部の村のことか?無理だな。私が呼ばれた時には既に皆殺されていた。生き残っていたのは立て籠もった賊と人質の斎姫だけだった。」

過去を確認させるように冷静な声で琥珀さんの問いかけに答えた里見さん。
"北部の村で生き残っているものはいなかった"ということはこの間シスターさん達にも聞いたけれど…自分の家族が突然死んでしまう、なんて。そんなことがあったら、耐えきれないに決まってる。わたしは震える手のひらを抑えるように、ぎゅうっと握り締めた。

「…弟達がいたの…まだ小さくて……」
「ひどい飢えでまず小さな子供から間引かれた。お前はどちらがよかった?親の手で殺されるのと、売られるのと。」
「…忘れてたの。村のことも親のことも、兄弟のことも。」

里見さんの言葉に琥珀さんは苦しそうに壁に手を突きながら絞るように話し出した。突かれた手には血管が浮き出ており、それと同時に人成らざるものの気配も強くなっていく。

「優しかった友達のこともみんな…嫌なこと、全部思い出さずにすんだわ。でも思い出したら止まらなくて…あの子と、あなたと、」
「…」
「話すともっと止まらなくて……大声で泣きわめきたい気持ちになった。」

肩を揺らしながら苦しそうにわたしに視線を向けてきた琥珀さんを、わたしは無言で見つめ返す……琥珀さんが言うあなたはきっとわたし。そしてあの子は信乃のこと。信乃は自分でも知らないうちに周りに色んなものを与えてくれる、まるで太陽みたいな眩しいひと…でも、わたしは、

「あなたのきらきらした銀色は、昔家族で数えた星に似ている…あなたは、私が失くしたものを全部持っていて、きらきらとあの子の隣で笑うあなたを、私は羨ましいと思った。」
「琥珀、さん…わたし、」
「嫌なコね。あの子もあなたも…せっかく忘れていたのに全部思い出したの。親に売られたことも、帰る場所がないことも、もうじき死ぬってことも。」

琥珀さんの名を呼んだわたしの声は、彼女の振り絞るような声に掻き消されて消えてしまう。そんな琥珀さんの内側に秘められていた想いが流れ出すように、両方の手を壁に突いた彼女の背からは白い骨のようなものが現れる。

「自分がたったひとりだってことも、だから…だから私に関わるもの全部、消えてしまえばいいと願ったわ。」
「ひと、り…」

琥珀さんの言葉はわたしの胸にも強く突き刺さった…わたしも、一人はとても、怖いから。たった一人だけで残されてしまったらわたしもきっと……琥珀さんと同じ選択をする。
琥珀さんの言葉とともに、彼女の背から現れた骨のようなもの、はまるで翼のように大きく広がり、琥珀さんの背を覆い隠した。その翼は今の琥珀さん気持ちを示すように不安定に揺れている。そんな中、琥珀さんを見つめていた荘介が目を細めながら口を開く。

「…貴女は信乃に、そしてなまえにも似ています。」

そう言った荘介は自分の手のひらを握り締めながら琥珀さんを見つめていたわたしに、ちらりと視線を寄こした。わたしは荘介の言葉に疑問を感じながらも、その続きを聞くために彼を見つめ返した。

「綺麗でいたくて汚いものにひどく敏感で、生きることに臆病です。
誰かの為と思わなくては生きることもままならない。」

最後の一言に、わたしは不意を突かれたようにどきりとすると同時に、あることに気がついた…確かにわたしも信乃も、荘介が言ったとおりの所があるかもしれない。けれど、きっとそれは荘介だって同じだ。
だって、わたしと荘介は似ている、から。

「あなたになんか…っ!」

荒げた琥珀さんの声とともに翼が荘介に当たりそうになるが、そんな翼を先程まで里見さんの隣にいた八房が粉々に砕く。荘介を守るように立つ八房と、大きな翼を震わせる琥珀さん。そんな緊張を切らすように、その声は突然響いた。

「俺がなんだってぇ!?荘介!!」

突然現れた信乃の姿に、わたし達は目を見開く。信乃の長い髪は一つに結われており、風に揺れてさらさらと揺れていた。里見さんはやれやれとでも言うように信乃を見て溜め息をついていた。そして琥珀さんも、すっかり変わった信乃の姿を不思議そうに見つめている。

「し、信乃、どうして…?」
「どーもこーもねぇよ…後で色々話すことあるから。」
「う、ん…?」

そう言ってわたしの横を通り過ぎた信乃は、大きく翼を広げながらしゃがみ込む琥珀さんに向かって話しかける。先程の信乃の言葉が気になったけれど、それは後だ。

「ゴメンな琥珀。俺、余計なコトしちまったよな。全部思い出すことがそんなに辛いことだとは思わなかったんだ。忘れてた方が楽に生きられたなんて知らなかったんだ。」

琥珀さんがわたし達に話してくれた様々なこと。その話、に時々違和感を感じたのは…琥珀さんがわたし達に嘘をついていた、から。

「だからこそ死ぬのが怖くないって……生きる方が怖いって、そんな風に考える人もいるってこと、俺判んなかった。」
「…だから、キライよ。子供なんて。」
「うん、ゴメンな…琥珀。」

琥珀さんにそう言った信乃はめくられたワイシャツから覗く、村雨が眠っている腕を前に突き出した…まさか、わたし達はそんな信乃を見て目を見開く。

「村雨、もういいだろ?お前充分寝過ぎだ。」

信乃の声に眠っていた村雨の瞳が開かれ、信乃の腕から翼が現れる。そしてその翼は剣となり、妖刀、村雨は信乃の手に握られた…わたし達は黙って信乃を見つめることしか、できない。

「俺さ、こんな風に化け物が取り憑いて死なない体になっても、まだ死ぬのが怖いんだよ。おかしいよな?
血ィ吐いて呼吸も苦しくて全身痛いのも、しっかり体が覚えてる。死んだ方が楽だって判ってても怖いのは忘れらんねぇ。」

わたしの脳裏に蘇るのは、布団に体を丸めて苦しそうに息をする信乃の姿。その姿を見てもわたしはなにもできなくて、それと同時に…信乃がどこかへ行ってしまうんじゃないかって、わたしは一人取り残されるんじゃないかって、こわくて。

「琥珀、アンタは怖くないの?」
 
信乃の問いに綺麗な金の瞳から涙をこぼしていた琥珀さんは、私は…と、か細い声で続ける。

「こんな風に化け物になってたった一人で生きる方が、ずっと怖い。」
「…化け物なんかじゃないよ、琥珀は。聖書の中の天使みたいに、すごく綺麗だ。」

わたしは信乃の言葉と一緒に琥珀さんの後ろ姿を目に焼き付けるように見つめて、驚いた。先程まで震えていた両翼は美しく開かれ、両側に伸ばされていて、そんな琥珀さんを上から優しく見下ろすのは…わたし達が信仰する神。 琥珀さんは嬉しそうに目を細めて、その瞳から涙を流した。その姿を見て、わたしの頬にも一筋の涙が伝った。そしてそのまま、わたしは驚く周りに構うことなく声をあげた。

「琥珀さん…!」

そんなわたしの声に、琥珀さんは驚いたように振り向く。

「わたし、わたしも、琥珀さんと一緒なんです…一人が怖くて、臆病で。それに加えて自信もなくて、一人じゃなにもできなくて…!だから!」

わたしこそ、琥珀さんがすごい、って。
わたしもあなたみたいに強くなれたら、って。

琥珀さんは少しの間驚きで目をぱちぱちと瞬かせた後、"ありがとう"と笑みを浮かべた。そんな琥珀さんの笑顔に、信乃とわたしはお互いに緩んだ顔を見合わせる。

さようなら

振り下ろされた村雨に、きらきらと瞬く光。光が晴れた場所にあったのは、鈍く光る信乃の小さな十字架だった。

***

琥珀さんとお別れしたわたしは、仕事があるという里見さんを荘介と一緒に見送った後、教会の外に木陰をつくる木をぼうっと見上げていた。そんなわたしに、荘介が大丈夫ですか、と顔を覗きこんでくる。わたしは彼に情けない顔を見せないように精一杯、笑みを浮かべた…と、言っても、わたしがこんなことをしても荘介に見透かされない訳がないのだけれど。

「わたしは、大丈夫。わたしよりも信乃のこと、心配してあげて。」
「なまえ…」
「…一番辛いのは信乃だから。」

自分の親しい人を自分で傷つけてしまう、なんて、悲しいに決まっているから。そう考えた時重なったのは昨日の信乃のことで、わたしははっとして荘介から顔を反らして目を瞑った。そんなわたしに荘介はなまえ?と不思議そうにわしの名前を呼ぶ。

「なんでもないの。荘は先に行ってて。」
「…なまえ、」
「なんでも、ないの…」

苦しい想いがわたしの胸をぎゅうっと締め付けて、わたしの頬がつめたいもので濡れる…今、こんな顔見せたら荘介にも、信乃にも心配かけちゃう。これ以上涙が流れないように、わたしはさらに強く目蓋を閉じた。一向に振り向かないわたしに呆れてしまったのか、荘介ははあ、と溜め息をつく。そのまま横を通り過ぎるかと思った荘介はわたしの横で立ち止まると、わたしの頭を片手でぽん、と優しく撫でた。突然の出来事で、わたしは驚いて目を見開く。

「中で待ってます、信乃と一緒に。」
「……う、ん。うん。ありが、とう。」

わたしに似ているようだけれど、わたしなんかより強くて立派な幼なじみ。その優しさに、堪えていた筈の涙が枷が外れたようにぽろぽろと流れ出した…わたしも、しっかりしなくっちゃ。

***

少しの間一人の時間を過ごすことができたわたしは、ちょっぴり腫れている目をなにも言われませんように、なんて思いながらこすって、教会へと戻った。戻ってすぐに見つけたのは、長椅子の端っこに膝を立てながら座っている信乃。

「信乃、」
「…なまえ。」

俯いていた顔を上げた信乃はわたしの擦った目を見て一瞬眉を寄せたけれど、座れば?と自分の隣を指さした。わたしは信乃の言葉どおり彼の隣に腰掛ける。そんなわたしが座るのを待つことなく、信乃はなまえ、と再びわたしの名前を呼んだ。

「…あ、荘はお茶取りに行ったから。お前のこと、心配してたぞ。」
「…うん、ありがとう。」
「それは本人に言ってやれよ…それより、俺が話したいことは別にあるから。」
「…」

信乃の言葉でわたしが思い出すのは、先程信乃が突然現れた時に言ったこと。
"後で色々話すことあるから"
その言葉の意味をわたしはなんとなく察してしまったような気がして、でも、そんなことはいけない、と自分自身で考えを否定する。わたしが一人でそんなことを考えているうちに信乃が続きを話し出した。

「……ごめん。俺もしかして、お前のこと傷つけた?」
「え…?」
「…昨晩の記憶、一人でシャワー浴びてたとこまでは覚えてるんだけど、それ以降が思い出せねぇ。その時俺、自分自身が気がつかない内にお前のこと、傷つけたんじゃないか、って。」
「そんな、の、」

わたしが察していたこと、信乃には思い出して欲しくなかったことをそのまま信乃に話されて、わたしは思わずぎゅうっと自分の服を握った…これは、わたしが不安になった時にしてしまう癖。信乃の視線がわたしの手に向いていることに気がついて、わたしははっとして手を引っ込める。

「"お前はまた大切なものを傷つけるぞ"」
「それ…」
「そう。今日、里見が俺に言った言葉。それを聞いた時、お前はすごく動揺してた…なまえ。お前、自分が俺に村雨の力で傷つけられたこと、隠しておきたかったんだろ?」

信乃から目を逸らすように俯くわたし。けれど信乃はそれを追いかけるようにわたしの顔を覗き込む。さっきあんなに泣いたのにもう潤んでくる瞳に、わたしは強く唇を噛んだ…わたし、今すごく酷い顔、してる。けれど信乃はそんなわたしでも受け入れるように、そっとわたしの手を握った。その手は相変わらず温かくて、安心する。

「……大切な人を自分で傷つけるって、すごく辛いことだから…琥珀さんのことも同じ。だからわたし、言いたくなくて。こうして隠すことで信乃が怒ることも、わかってた。でもわたし、」
「…なら、もうなまえがそうやって隠さないように、もう一回約束する。」

信乃は握っていたわたしの手を離すと、わたしの前に小指を差し出した。
"やくそく"それはわたし達が小さな時も、きらきら光星空の下で二人、交わしたもの。頭の中で昔と今の光景が繋がって、瞳からこぼれそうになっていた涙はすっかり引っ込む。その代わりにわたしの顔に浮かんだのは、笑み。そんなわたしを見て信乃も笑う。わたしは、差し出された信乃の小指に自分の小指を絡ませた。

「なまえ、もうお前を傷つけることは絶対にしない。お前は俺が守る。俺がずっと、傍にいる…約束だ。」

あの時、二人で星を見た時も交わした約束…ねえ、信乃。わたしはいつもいつも、信乃の言葉に救われてるの。信乃がこうやってわたしに笑いかけて、傍にいてくれるから、わたしは生きていられるの。

「…じゃあ、信乃。わたしからも、約束。」
「なまえからも?なに?」

あの時はなかったわたしからの言葉に、信乃は不思議そうに首を傾げた。わたしは信乃と小指を絡ませたまま言葉を続ける。

「…少しでもわたしにできることがあったら、言って……荘介の影のこと、も。信乃はわたしは心配するなって言ってたけど、そんなこと言われても、心配するに決まってるよ…わたしも、人のこと言えない、けど。」
「…なんだよなまえの癖に。」
「う…で、でもわたしだって、大切な信乃を守りたい、って思ってるんだもの。だから…っ!?」

その時、突然信乃に腕を引かれたわたしは、驚きで目を見開いた。
腰に回る腕。顔のすぐ横にある整った顔。頬をくすぐるさらさらの黒髪。
わたしの体温はみるみるうちに上昇して、先程まで色々考えていた頭は真っ白になる。

「し、ししし信乃…?ど、どうした、の?」
「…なまえが似合わないこと言うからだろ、馬鹿。」
「は、ばか…」

貶された理由はわからないけれど、今のわたしがなにか言い返せるわけでもないので、わたしはそのまま黙って信乃の首筋に顔をうめた。信乃が小さい姿の時は全く逆の体制だったから、なんだか変なかん、じ。
わたしがそんなことを考えていると、わたしと同じく少しだけ黙っていた信乃がなまえ、とわたしの名前を呼ぶ。わたしはそれになに、と小さく答えた。

「さっきさ、琥珀に死ぬのは怖い、って言ったけど…たった一人ぼっちこの世に取り残されたら、それは死ぬこと以上に恐ろしいことだと思うんだ。」
「…うん。」
「でも、さあ。たった一人でも傍にいて手を握ってくれたなら、きっと生きることも怖くはないと思うんだ。たとえどこにいても、どんな時も。」

信乃の言葉はわたしの胸にじんわりと染み渡った…だってわたしも信乃にそうしてもらって生きているから。
一人ぼっちだったわたしに手を差し伸べてくれた信乃。そこから荘介に浜路に四白、色鮮やかな世界が広がっていった。そしてそれは今も広がり続けている…だから。

「…ならわたし、信乃の手を握っていても、いい?」
「え?」
「信乃の手を握っていてくれる人はきっとたくさんいると思う。でもわたし、その中の一人でもいいから、信乃の手を握っていたい。ずっと。」

お互い顔を上げて向き合ったわたし達。
わたしの問いに信乃は少し驚いたように目を見開いたけれど、ありがとう、と言って微笑んでくれた。その笑みを見てわたしの胸はぽかぽかと温まる…信乃はいつもあたたかい。手のひらも言葉も、笑顔も。幸せな気持ちに浸ったまま、わたしは甘えるように信乃の肩に頭を乗せた。そんなわたしに、上から溜め息が降ってきたけれど、信乃はわたしを押し返すことはせず、そのまま少しわたしの方へ頭を傾けた。それと同時に互いの手のひらが重なる。その温かさが心地良くて、わたしは目を閉じる。
子供のようにくっついて眠るわたし達をお茶を持って来た荘介が見つけるまで、あと少し。


苦しみもきっと光になれる
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