「…何だっていうんですか。いきなり。」

一瞬白くなった視界が元に戻り"荘介"の隣にいたわたしの手に触れたのは、ふわふわの柔らかい毛。

「これじゃ四白もいい迷惑ですよ。」

信乃の呼びかけに答えて、出て来た"四白"。そんな四白の姿の荘介は刀を置いた信乃に抱かれながら溜め息をついている。四白の姿の荘介は怪我もないようで、ひとまず安心…こんなことを咄嗟に思いつくなんて、流石信乃である。
一息ついたわたし達とは反対に、わたし達を襲っていた"彼"は四白の姿"犬"の姿になった荘介を見て、驚きを隠せないようだ。人間が突然犬になった、なんて、驚かない人の方が少ないだろうけれど。

「……い、ぬ…?犬だと!?何をふざけて…」
「旦開野。もうおやめなさいな、そんな小さい子を苛めて。」

わたし達を睨みつけていた彼は後ろから聞こえてきた女性の声に、はっと振り返った。扉の影から現れたのは真っ赤な唇が印象的な、長い黒髪女性。こちらもまたとても美人な方である。どうやら彼、旦開野さんの知り合いのようだ。

「それはあの男とは違うものよ。わかるでしょう?」
「九重……でも!!」
「いい加減になさい。早とちりはあなたの悪い癖よ。」

九重さん、の言葉に先程わたし達に向かって刀を向けていた旦開野さんは罰が悪そうに俯く…先程はわたし達の言葉なんて全然聞いてくれなかったの、に。九重さんは旦開野さんにとって特別な存在なのかもしれない。
それにしても、旦開野さんや九重さんが言っている"あの男"とはなにを指しているのだろう。

「私にはこれがあの男と同じには見えなくてよ。少なくとも…こんなフザけた生き物じゃなかった気がするもの。」

"フザけた生き物"
四白の姿の荘介を見ながらそう言い切った九重さん。わたしは隣の荘介を見て思わず苦笑してしまった。荘介は再び自分の姿を確認した後、少し不機嫌そうに口を開く。

「…何か今、さらっと失礼なことを言われた気がします。」
「あ、あはは…」
「…いーから黙っとけ。」

荘介には悪いけれど、信乃の言うとおり今は黙っておいた方がいいだろう…わたし達不利だから、ね。はあ、と溜め息をつきながらも口を閉ざした荘介。そんな荘介と入れ替わりに、九重さんがわたし達に話しかけてきた。彼女は信乃の隣に刺してある村雨を見て少しばかり笑みを深くする。

「うちのコが迷惑かけたようでごめんなさいね。許してやってとは言わないけれど…代わりに私があなた達の言うことを何でもきくわ。」
「九重…っ。」

九重さんの言葉に旦開野さんが反論しようとするが、彼女は彼の唇に人差し指を向けて、口を閉ざさせた。信乃は少し考えた後九重さんを見つめながら言う。

「…では、探し物を頼む。目的の物はほまちの山に。"義"と書かれた小さな玉。」

"義"と書かれた小さな玉。この間失くしてしまった荘介の玉、だ。わたしも鳥達に探してもらっているけれど、まだ見つかってはいないようだし…彼女に見つけてもらえたらとても助かる。

「人が立ち入れる山ではないが、アンタならできるだろう?」
「……イヤなコね、私だって猿神は怖いわよ。でも承知したわ。」

口元に笑みを浮かべながら言ってみせた信乃に彼女も同じく笑みを浮かべながら答える…"人"とは違う、不思議な気配を感じさせる九重さん。この気配をわたしはよく知っている。この不思議な気配は"妖"特有のもの、だ。
信乃の頼み事を了承した九重さんに、旦開野さんは意味がわからないと言う風に声を荒げながら九重さんに問いかける。

「九重!!何でこんな子供の言うこと聞くんだ!?」
「あら旦開野、まだ判らないの?」
「ああ!?」
「あのコの言うことを聞かなければ、あれに殺されていたわよ。」

首を傾げる旦開野さんに対し、九重さんが真っ直ぐ見つめていたのは妖刀"村雨"。凄まじい負の気を放つそれ、はどんな妖も、そして神をも殺す力を持っている…信乃の身の内のもの、ということで近くに感じるような村雨、だけれども、本当はわたしなんかよりずっとずっと遠い場所にあるのだと思う。

「…ああそう、これ。」

ふと、なにかを思い出したように口を開いた九重さんは先程旦開野さんに蹴飛ばされた"神楽鈴"をわたしに差し出した。突然どこからか現れたこの鈴の正体はよくわからないけれど、ただの"鈴"ではないということは、なんとなくわかる。事情を知らない信乃は、その鈴を警戒するように見つめた。

「なまえ、この鈴…」
「大、丈夫。」

"大丈夫"
自分の中の不安も取り除くように、その言葉を繰り返した。この鈴は、わたしを守ってくれた、のだ…もし、もしあの時この鈴が旦開野さんの刀を弾いていなかったら、わたしは頬の怪我どころじゃ済まなかっただろう。ここ最近"鈴"に関する言葉をよく聞くけれど、それらはなにか、関係があるのだろうか。

「あなたの不思議な力を持つ銀色の髪は…あなたを害するものでもあり、守るものでもあるのね。」
「…え?」

笑みを深めながらわたしに鈴を渡した九重さん。その意味深な笑みにわたしは思わず見とれてしまった。けれど彼女から渡された神楽鈴、はわたしが触れた瞬間、また何事もなかったかのように消えてしまう。

「きえ、た…?」

わたしは目の前で起こった不思議な現象をただ、黙って見ていることしかできない…そんなわたしに対し、信乃はなにかを考えこむように鈴を見つめていた。

***

旦開野さんと九重さんが去ってわたし達三人だけになった礼拝堂は、先程の騒動などなかったかのように静寂に包まれている。所々礼拝堂に残る傷跡は先程のことが本当にあったこと、なのだとわたしに教えてくれた。

「荘介。傷、大丈夫?」
「大丈夫ですよ。なまえこそ、顔に傷なんて…痕が残ってしまわないか心配ですね。」
「…わたしはいいの。」

顔に傷痕が残ったとしても、それはわたしが弱いという証だもの。ぎゅっと四白の姿の荘介を抱きしめている信乃の隣で、わたしも荘介のふわふわの頭を撫でた。本当、荘介が無事で良かった。旦開野さんに応戦した信乃も怪我はないみたい、だし。

「荘介、信乃も…ごめんなさい。」
「…なんで俺にまで謝るんだよ。」
「だって、わたしはいつも二人に守ってもらってばかりなんだもん…わたし、これでいいのかな、って。」

先程のことを思い返して思わずぎゅっと、服の裾を握った。わたしは、いつもいつもこんなことを繰り返してばかりな気がする…わたしにも、強い力があったら、な。
ふとそんなことをつぶやいたわたしに、信乃は俯いているわたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「馬鹿か。別になまえは力なんてなくていんだよ。つか、お前に守られて怪我されるくらいなら、自分が怪我した方がマシだ。」

信乃から投げかけられた言葉に、わたしは俯いていた顔を上げた…わたしも、信乃も荘介も。皆お互いおんなじことを考えているんだ。自分のために傷ついて欲しくなくて。消えてしまうのが怖くて。だから、相手を守るために自分を犠牲にするという気持ちは、相手には理解してもらうことができない…お互いが大切な存在、だから。

「信乃、それは俺から信乃にも贈りたい言葉ですよ。」
「…そういうことはいーんだよ……荘、さっきは悪かったな。」

…先程小文吾さんや現八さんに言っていた言葉はどこへやら。あっさりと荘介に謝罪さた信乃に、謝られた荘介もきょとん、としている。そんな荘介の反応を見て、信乃は何でもないとはぐらかして荘介の頭を撫でた。

「それより玉探しの依頼など…女性に頼むべきではありませんよ。」
「ケッ。ただの女楽師じゃねぇよ、あの女。」
「そうですか?二人ともずいぶんな美人さんでしたけどね。」

九重さんを完全にただの"女性"だと思っている荘介。確かに信乃の言うとおり、九重さんはただの"女性"ではないに違いない…普通だったら山の中から玉を探せだなんて依頼、女性一人で受けるわけない、もの。まあ九重さんは人間らしい、といえば人間らしいけれども。

「それにしても一体誰と間違えたんでしょう?」
「荘介に双子の兄弟がいた、とか?」
「俺は一人っ子だと思ったんですけど、余程俺と瓜二つってことですかね? 」
「知らねえよ。」

突き放すように言った信乃に、わたし達は一度口を閉ざす。
荘介と瓜二つの人間が悪いことをしている…なんだか聞いていてあまりいい話ではないけれど、自分と瓜二つの人間がいる、なんて。なんだか変な話だ。

「俺らには関係ない話だ。もう忘れろ!」
「…そうですね。」
「う、ん…」

荘介は信乃の言葉に少し考えた後、こくりと頷いた…本当に関係ない、のかな。
旦開野さんの早とちりというのもあるのかもしれないけれど、彼は"その顔""その声"と、自分の仇の相手をしっかりと覚えているようだったし。
なんだか引っかかるなあ。

***

香ばしいコーヒーの匂いが漂う部屋の中。そこでわたしも温かい紅茶をいただきながら、朝の時間を過ごしていた。朝の時間、といってもわたしの場合は欠伸ばかりこぼしていて、目の前で新聞片手にコーヒーを飲んでいる斎木さんと現八ほど優雅ではないのだけれど。
また欠伸をひとつこぼして眠気と戦っていると、居間の扉が開かれて信乃が顔を出した。

「あ…信乃、おはよう。」
「おーなまえ、はよ。」
「お、信乃も起きたのか。」
「ああ…ねむ。」

わたしと現八さんからの挨拶を返した信乃も、わたしと同じように大きな欠伸をこぼした。よくよく考えてみれば昨日は礼拝堂での事件があって…あの後も怪我の手当てやら礼拝堂の片付けやらで慌ただしかったもの、ね。今日はあんな冷や冷やさせられる事件が起こらないといいのだけれども。
そんなことを考えながらぼうっとしていると、突然信乃の後ろにある扉が大きな音を立てて開いた。

「大っ変よー!茜ちゃん!!一大事っ!!」

そう大きな声で叫びながら入って来たのは、昨日地下牢で別れた桜庭さん。そんな桜庭さんは居間の光景を見るなり、はっと顔色を変えた。

「…まっ!!犬飼中尉とモーニングコーヒーだなんて!!アナタ達いつの間にそんな関係!?」
「……ハア?」
「とっとと用件を言え。」

いつもどおりの桜庭さん、呆れ顔の現八さん。そんな桜庭さんに斎木さんもいつもどおりぴしゃりと返す。斎木さんの言葉で桜庭さんは再びはっとして居間を見回した。

「そーなの!!昨日のおチビちゃんはドコ!?あのコったら、昨日大変な忘れ物をして行ったのよ!」
「忘れ、物…?」
「ああ、信乃ならそこに…」

そういえば信乃、この教会に来てからいつもの上着を着ていなかった、なあ。けれど、上着だけで"大変な忘れ物"になるのだろうか。桜庭さんが探している信乃に再び目線を向けようとしたのだが、先程までいた場所に信乃はいない。桜庭さんに信乃の場所を伝えようとした現八さんも、消えてしまった信乃を探してきょろきょろと周りを見回す。

「…信乃…?」
「アラ?」
「どこ行ったんだろう…」

さっきまでは確かに扉の前にいたのに。座っていたソファーから立ち上がって扉の側まで近づいてみると、扉の後ろからうぅ…と小さな呻き声が。まさかと思って扉の後ろを確認すると、そこには頭にたんこぶを作って伸びている信乃の姿があった…思い返してみれば桜庭さん、ノックもなしに突然入って来たから、避ける暇、なかったものね。

「し、信乃…大丈夫?」
「なん…とか。」

伸びながら振り絞るように声を出した信乃を抱き起こして、開いていた扉を閉める。信乃のたんこぶ、随分立派だけど、本当に大丈夫かな。信乃がこうなった原因の桜庭さんはというと、信乃の立派なたんこぶを力の加減無しに触れてしまって、信乃の睨みを貰っていた…桜庭さん、流石だなあ。

***

信乃のたんこぶの痛みも引いてきたところで、桜庭さんは早速話の本題に入った。桜庭さんが信乃に"忘れ物"と言って届けてくれたのは、まず信乃がいつも着ている上着。そしてもうひとつは、鈍く光る手のひらより少し大きいくらいの石。石を取り出した桜庭さんは、その石をじっと見つめながら口を開いた。

「コレ、金ね。」
「金?信乃お前、そんなモンどっから…」
「いーじゃん、別に。」

現八さんの問いかけにふい、と顔を背ける信乃。桜庭さんの話によると、どうやらこの金は本物らしい。
それにしても金なんて高価なもの、山で簡単に拾えるもの、なのかな。首を傾げていたわたしの頭にふと浮かんだのは、ほまち山に信乃を迎えに行った時のこと。そういえば信乃、玉を探してる間側に付き添ってくれていた誰かがいた、と言っていたなあ。信乃がお礼を言う前に姿を消してしまったようだけれども。
もしかしたら金はその誰か、が信乃に贈ったものなのかもしれない。

「おチビちゃん。これ、あのほまちの山から持ってきたんじゃない?」
「それがどーしたよ?」
「あの山は元々金山なのよ。」
「金…山?」

"金山"という言葉に、わたしは思わずほまち山の光景を思い返す。金山、とは名前のとおり"金の採れる山"ということだろう。けれど金山というと、もう少し違う…荒れた山を想像していた。この間森に入った時、森はとても綺麗だった、もの。

「ええ。茜ちゃんなら知ってるわよね?」
「大昔のことだ。金精錬過程で発生する無機水銀やシアン化合物で周辺の汚染がひどかった。人がこの地に戻って来れたのはたった五十年程前。その頃にはもう土地も地下水も綺麗なもんだったらしいがな。」

今でも外待雨が降り続ける"ほまちの山"の過去。わたしは斎木さんの話を聞いて、この地の"雨"と"山"は、きっとなにか深い関わりがあるのだと、なんとなく理解することができた。わたしの隣に座っている信乃もなにかを考え込むように顎に手を当てている。
ほまちの山だけに降り続ける"雨"。
その雨は、本当に"山"のためだけに降っているのだろうか。

「…あとね、村の人達が総出であの山に入るって大騒ぎよ。」
「何だと!?」

桜庭さんの言葉に斎木さんは血相を変えた。どうやら信乃が持って来た金で、日々水不足が加速していっている村は大騒ぎらしい。水がなくなっても、金さえ出れば、金を売ってお金に変えればなんとかなる、と。

「あんのバカ共…山に入って死んだ五人を忘れやがったのか!?」
「だって茜ちゃんが言ったんじゃない!!例の水さえ飲まなきゃ大丈夫だって。」
「あの山が安全とは言ってない!!」

声を張り上げて口論をする二人。桜庭さんはじゃあ…と、なにかを考えるようにわたし達に視線を向けた。

「じゃあどうしてこのコ達は無事に戻って来れたのかしら?」

桜庭さんの口からこぼれた疑問。その場に漂うのは沈黙…確かに、どうしてわたし達は無事に戻って来られたんだろう。
ほまちの山には山を守る猿神が住んでいる。そんな猿神がわたし達の立ち入りを許したのは、やはりわたし達が"人ではないもの"だからだったのだろうか。

「…ひとつ、忠告するなら。」

沈黙の中、最初に口を開いたのは信乃。信乃はひとつ溜め息をこぼし、言葉を続ける。

「何故あの山にしか雨が降らないのか、何故あの山に人が立ち入れないのか。ちゃんと理由があるってことさ。判ってんのかね?ここの人間は。」

信乃はぶらぶらと下ろしていた足を組んで、背にあるクッションに肘をついた。
その表情は"幼い子ども"の表情ではない。信乃の表情に"大人"達の目を奪われていた。

「それでも行くというのなら、俺は別に止めやしないけど?」

"山に人が立ち入れない理由"
先程桜庭さんがしてくれた"金"の話ともう一度照らし合わせてみると、わたしも理解することができた。
ほまちの山を守る"猿神"は山から"奪う"ものを山に入れることはないのだ…決して。

***

「ねむ、い…」

先程"ほまちの山"の話で一度は頭が冴えたものの…すっかり静かになった居間と、荘介がかけてくれた毛布の温かさで再び眠気が襲ってきた。荘介は膝を信乃に貸しながら、相変わらず欠伸ばかりこぼすわたしを呆れたように見つめる。

「なまえ、また眠いんですか?」
「ん…」
「最近多いですね、うとうとするの。ちゃんと眠ってますか?」
「眠ってる、よ…」

荘介の問いにまた欠伸をこぼしながら答えると、本当ですかねえ、と疑いの目を向けられた…確かに最近夢はよく見るけれど、ちゃんと眠ってるのは本当、だもの。

「荘、眠いって言ってんなら寝かせとけ。またどっか行かれるよりマシだろ。」
「…今日はどこにも行かないもの。」
「そうだといいけどな。」

荘介の膝の上で寝返りを打ちながらそう言った信乃の声はいつもより少し低くって、なんだか機嫌が悪そうだ。そんな信乃に荘介はそうですね、と返しながら苦笑する。

「ずいぶん御機嫌ナナメですね。」
「…玉はなくしちまうし、閉じ込められるし、お前らは怪我するしでロクなことがねぇ。機嫌なんてハナから悪いに決まってんだろ!」
「そのうち二つは信乃のせいですよ。反省して下さい。」

荘介のごもっともな言葉に信乃は言葉に詰まったように黙る。けれど、荘介が怪我をしてしまったのはわたしのせいでもある。昨日刀によってできた頬の傷に触れてみると、傷が浅かったためかもう直りかけていた…旦開野さん、初めて会った時、また会えるかもなんて思ったけれど、まさかあんな風に再会するとは思っていなかったなあ。

「…いつか必ずブッ飛ばす。」
「誰を?」
「誰って…昨日の変な男女…」

…信乃も、旦開野さんのこと考えてたんだ。確かに、本当女の人みたいに綺麗な人だよなあ。ぼうっとする頭の中でそんなことを考えていると、わたし達の前にひらりと色素の薄い髪が揺れた。

「…変な?」

うっすらと笑みを浮かべながら、突然現れた旦開野さん。声のトーンからも彼は明らかに怒っていて、信乃とわたしはびくりと肩を揺らす。ぼうっとしていたわたしの頭は一気に覚醒した。
わたしはどくどくと波打つ心臓を押さえながら、平然としている荘介にしがみつく。もちろん、信乃も青い顔で荘介に抱きついていた…びっくり、した。

「いい身分だな。九重を顎でコキ使っておいて。」
「えーと…旦開野…さん?」
「毛野でいい、犬阪毛野だ。」

昨日の事件の時とは違い毛野さんの雰囲気は柔らかで、わたしも少しほっとする…わたし達、一方間違えたらこの人に殺されていたんだよ、ね。 

「昨日は悪かったな。
人違いだと九重に怒られた。よく考えりゃあんな人殺しがこんなチビとボケ女の下僕になっているハズがない。スマン。」
「ぼ、ぼけ…」
「誰がチビだあ!?え!?コラァ!?」
「怒るとこそこなんですね…」

ぐわっ、と大声で反論する信乃に対し、荘介はぼそっと下僕…なんて呟いている。それにしても毛野さん、謝ってるのにチビにボケに下僕、なんて随分な言いようだなあ…わたしはいつも言われているようなことだからあまり気にしない、けれども。まあ謝ってくれるだけいい、よね。

「九重はお前に言われた通り山へ向かったが…あの山は人が立ち入らない禁忌の山なんだろう?」
「ただの人になんて頼まねーよ。アンタ、あの女が何なのか知ってんのか?」

九重さんの、正体。わたしは九重さんが"妖"なのはわかったけれど、彼女が何者、なのかまではわからなかった。
信乃の問いに毛野さんは顔色も変えずに答える。

「九重は命の恩人だ。俺らの母であり姉でもある。それ以外に何を知る必要がある?」
「…別に。」

確かに自分を助けてくれた大切な人、だったら例え何者でもいいと思うかもしれない。それにしても"妖"が命の恩人なんて、またどこかで聞いたことのある話だなあ。

「第一お前らは九重のことをとやかく言う資格はない。お前らだって犬になったり、不思議な髪を持ってたり、腕から妙な刀のバケモノ出したり…それに比べれば九重なんざ普通の女だ!!」

毛野さんの言葉に、荘介とわたし思わず確かに、と頷いてしまう…九重さん、見た目は綺麗な女の人だものね。"妖"の感じって言っても、普通の人にはわからないし。
納得しているわたし達の隣で、信乃はナニ納得してんだよ、と反論する。信乃と毛野さんの二人で口論をしている姿はお互いどこか似ていて、思わず笑みがこぼれた…また、不思議な知り合いができたなあ。


まなざしの糸を辿りて
prev next
back