「ふあ…」
「おいなまえ、寝ぼけてこけんじゃねーぞ。」
「ん…」

信乃にそんな言葉をかけられながら手を引かれること数十分。眠たい目をこすりながら周りを見回すと、もう随分緑ばかりになっていた。
毛野さんのこともひとまず落ち着いて、お昼寝でもしようと思っていたにもかかわらず…今わたし達がいるのは、人が立ち入ってはいけないと言われている"ほまちの山"。なぜこんなことになってしまったかというと、前を歩いている村人達がわたし達に金を見つけた場所を案内しろ、と詰め寄ってきたせい、だ。

「………ちょっと待てコラ。」

とりあえず、大人しく村人達に着いて行っているわたし達の後ろで制止の声をかけたのは、完全に巻き添いをくらってしまった毛野さん。何で俺まで!と声を張り上げる毛野さんに、村人の一人が運が悪かったな、と簡単な言葉で片付けてしまう。

「村長や斎木の先生に山に入ったとバレると面倒だから、しばらく付き合ってもらう。」
「女の人に山歩きは酷だけど仕方ねぇ、我慢してくれ。そっちの眠そうなねーちゃんもな。」
「できるか!!」

けっ、と村人の背を睨みつける毛野さんはとても女性、の顔には見えない顔をしていた…実際女性ではないのだけれども。わたしはよく教会の裏の森に信乃と一緒に入っていたから自然は億劫ではないけれど、馴れない人はやっぱり大変だろう。
最初はわたし達の案内無しでもずんずん山を進んでいた村人達だったが、少し経つと地図と磁石とにらめっこをする回数が増えてきた。山に入る時は降っていた雨も、今はすっかり止んでいる。

「それにしても、噂通り山に人が入った途端ピタリと雨が止んだな。一滴も降らねぇ。」
「磁石も効かねぇし。坊主、ちゃんと道案内頼むぞ。」
「あの金を拾ったところまで案内してくれりゃいいから。」

相変わらずの村人達に、信乃は呆れかえったようにやれやれと溜め息を吐く。
目の前の村人達は自分達の軽はずみな行動が猿神の怒りに触れるということをまだ知らない、のだ。
すっかり晴れたように見える空だけれど、まだ少しばかり暗い空はまるでこちらを睨んでいるようだった。

***

それから数時間。そんな長い時間歩いていればさすがに寝ぼけていたわたしの頭も醒めた。数時間山を進んでも、わたし達を囲む景色はあまり変わっていない。
進んでも進んでも前に進めないという事実に村人達もいらいらしてきたようで、彼らは目を吊り上げながら信乃を怒鳴りつけた。

「おい、クソガキ!!お前ちゃんと道案内できてんのか!?」
「…だからムリつってんのに……」

八つ当たりをしてくる彼らに、信乃は再び呆れたように溜め息をつく…怒りをわたし達にぶつけたって、進めるわけじゃない、のに。 
それでも村人達はまだ諦めずに上の方を目指して進むようだ。そんな村人達の背を見ながら、荘介は彼らに気づかれないように小声で信乃に尋ねる。

「信乃、先日は俺達だけでもこの先へ進めましたよ?今日は信乃が一緒なのに何故?」
「入ろうと思えば入れるさ。俺達、だけなら。今日は無理。」
「どうして?」
「どうして…って。人は入れない決まりだって猿神が言うから。」

きょとん、とした顔で答えた信乃に、荘介とわたしは思わず顔を見合わせた。

「……もしかして、この間の親戚な方ですか?」
「うん、そう。」
「信乃、猿神様に会ってたんだ…?」
「まあな。」

そういえばこの間わたし達が信乃を迎えに山に入った時、信乃がいた場所の近くで鈍く光る二つの目のようなものを見た、なあ。もしかしたらあれは猿神の目だったのかもしれない。

「とにかく、猿神サマの結界内にいるワケだから、向こうから呼んでもらうか、外からムリヤリ壊さない限り前にも後ろにも進めねーハズ…」
「ナニ?俺ら閉じ込められたってコト!?」

顔を青くしながらきょろきょろと周りを見回す小文吾さん。ここに閉じ込められたままになってしまったら、食べ物とか飲み物とか困るもの、ね…なんだか最近、閉じ込められてばかりだなあ。
わたしが呑気にそんなことを考えている間に、斎木さんの所へ連絡をしに行っていた村雨が戻って来たらしい。
シノーといつもどおり片言で名前を呼んだ彼はこちらへ来ようとしたが、なにかに阻まれてこちらへ来ることができないようだ。大丈夫かな、と心配する間もなく、村雨のくちばしが当たっていた部分がばきんと音を立てて割れる。
その瞬間、割れた部分から光が漏れだし、わたし達にじゃあっと水が落ちてきた。

「……何か今壊れた…壊れたぞ?」
「…壊れましたね。」
「パキンって、しかもあっけなく…」

びっしょりと濡れてしまったわたし達からの視線を一斉に集める村雨。けれど、結界を壊れた張本人の彼はよくわかっていないようで、不思議そうに首を傾げている。

「結界、壊しちゃったけど…大丈夫なのかな…」
「さあ…」

雨が降り始めた空を見つめながら呟いた信乃の隣では、村人達が恍惚とした表情で雨を見つめている…確かに、彼らにとっては久々の雨だから、とても嬉しいだろうけれども。

「この雨水を村に引きゃ助かるし、その上金が見つかれば新しい土地だって…」
「そりゃ無理だ。その前にこっちが見つかっちまった。」

信乃の言葉で上を見上げると、そこには大きく開いた木の隙間からこちらを威嚇するように見つめている"猿神"の姿。猿神は大きな唸り声を上げると、恐怖と驚きで動けなくなっている村人を片手で掴み、自らの口へと持っていく。
"人を喰らう猿神"その話はここへ来る前から聞いていたけれど、まさかこんなに恐ろしいものだ、なんて。
荘介は信乃とわたしを守るように自分の背に寄せる。けれど、わたしの目にはしっかりと猿神の狂気の表情が映った。

「…去ね!」

地を這うような、恐ろしい声とともに始まったのは、山を揺らす地響き。それは今まで経験したことがない程に大きく、まるで山の怒りを表したような、そんな揺れだった。揺れは収まる様子はなく、むしろ急激に強くなっていく。

「これ、って…?」
「わかりません!それよりも、倒れないようにちゃんと俺に掴まっていてくださいね!」
「う、うん…」

再び猿神の大きな唸り声が響き、さらに揺れが強くなった。それを止めるように信乃が村雨を深く地面に突き刺す。その瞬間、村雨が刺さっている場所の近くの揺れは少し収まったが、信乃の呼吸が大きく乱れた。この山を信乃一人の力で支える、なんて相当の負担がかかるに違いない。
けれど信乃は振り絞るように猿神に向かって声を張り上げた。

「…アンタ、自分でこの山を壊しちまう気か?何で…っ。」
「………守るべきものがもうない。」

信乃の問いに答えた猿神の声は、先程の唸り声を出したとは思えないほどに弱々しく、悲しい声。

「もうない…って…この山がなくなったらアンタどーすんだよ!?」
「どうもしない。土に還るだけだ。皆と同じに…」

山を守るはずの、猿神。守り神であるはずの猿神が自ら山を壊してしまうなんて…一体、なにがあったのだろう。

「それを外せ。お前が我の代わりに身柱になるつもりか?」

そんは猿神の言葉とともに、村雨を押さえていた信乃の身体がぐらりと揺れ、信乃はその場に膝をついてしまう。
思わず駆け寄りそうになるわたし達だったが、信乃はそんなわたし達を止めた。更に荒くなる信乃の息にぎゅうっと胸が締め付けられる。

「…悪ィけど、俺はアンタと違って大事な人間がまだこの世にいるし。守らなくちゃいけない約束もあるから、こんなトコで柱やる気もないんだけど!!」
「人の子の約束など…」

猿神の全てを諦めてしまったような悲しい声とともに、わたしの頭に流れ込んできたのは、猿神の"想い"

約束などしなければよかった
そんなものをしなければ待つこともしなかった
淡い期待を抱いていつもいつも夏が来る度待っていた

猿神が大切な誰か、とした"約束"
猿神は心の奥底では今も、その約束を交わした相手を待ち続けているのかもしれない…"約束"という言葉は、なぜだかわたしの胸の奥をも大きく揺らした。

「…だがもう遅い。」
「…何?」
「すでに我は人の子に名をつけられた。」
「ああ!?」
「我はその者の意志にしか従わない。」

そう言って山の破壊を自身で止める気が全くない猿神に、信乃は呆れ半分苛々半分で再び猿神に向かって声を張り上げる。

「誰だよ!?ソイツー!!」
「我と"約束"を交わした者。果たすことのない"約束"を交わした者。」
「うわ!!超サイテー!!」

猿神と約束を交わした人はなぜ"約束"を果たしに来ないのだろう…なにか、深い理由があるのだろうか。それにしても猿神と約束を交わすほど仲が良くなったなんて、なかなかすごい人、だなあ。

「アホか!!猿神のくせにナニ騙されてんだよ!!一番アホなのは守れねぇ約束なんかしやがったソイツだけどな!」
「それは私のことか?」

信乃が猿神と、約束を交わした人に散々文句を言った直後、背後から聞こえてきたのはわたし達も知っている女性の声。信乃の頭を片手で掴みながら前に出た女性…斎木さんは猿神を恐れることなく見つめた。

「遅くなって悪かったな。ちゃんと来たぞ、東雲。」

"東雲"それが、斎木さんが猿神に贈った名前のようだ…まさか、斎木さんが猿神と約束を交わした人、だったなんて。
斎木さんに名前を呼ばれた猿神はただ、彼女を見つめ返す。

「何だ?耄碌して自分の名前も忘れたか?朝日は自分の名も私のこともちゃんと覚えていたというのにな!」
「ずっと大事に指輪を身につけてたわ。」

次に凛とした声で現れたのは、その手に白い布にくるまれたなにか、を抱えている九重さん。話の流れから、白い布の中身は斎木さんが言う"朝日"なのだろう。
そんな九重さんとともに、今度は空から可愛らしい鳴き声を響かせながら、小鳥が現れた。

「鳥…?」
「あ、この子達…あの夜会った…」

そう。この小鳥達は、荘介の玉探しを手伝ってくれていた小鳥達だ。
小鳥達はわたしの周りを一回転すると、口にくわえていたきらきらとしたものを九重さんに渡した。

「その子のお探しの玉も一緒にね。探しものはこれでいいんでしょう?」
「ああ。」

荘介の玉、"朝日"が拾ってくれていたんだ。とりあえず、荘介の玉が見つかって一安心。
けれど、まだ問題が解決したわけではない。

「…さて、先生。アンタは何を望む?」
「あ?」
「この猿神は名をつけたアンタの言うことしか聞かないようだ。」

信乃の言葉を聞き、再び斎木さんはその切れ長の瞳で"東雲"を見つめた。
斎木さんは一体どんな答えを選ぶのだろう。緊張感に包まれる中、一同の視線は斎木さんに集まる。

「……いや、特には。」

斎木さんの予想外の答えに、わたし達はただ、ぽかんと彼女を見つめることしかできない…まさかそんな答えが出てくる、なんて、誰も思っていなかっただろう。
なにも言葉が出てこないわたし達に対し、斎木さんは腰に手を当てながらはきはきと話を続ける。

「こんな山、失くしちまいたければ失くせばいいし。好きにしたらいいだろう?」
「……いや、あの…センセ?」
「水も金もわざわざ業突な人間に分けてやる必要もない。与えられるもので足りないというのなら、人などその辺で野垂れ死ね!」

あまりにも大胆な先生の意見に、わたし達も反論のしようがない…けれど、こんな人だからこそ、猿神と"約束"まで交わせる関係になることができたのかも、しれない。

「…でもまあ、もう一度会えてよかった。」

にっこりと、優しげな笑みで微笑んだ斎木さんに、無表情だった猿神の表情に変化が現れる。

「念願叶って医者としてここへ戻れた頃、私はもうすでに大人だった。本来大人はこの山へは入れないから…会えて嬉しいよ、東雲。」

猿神の瞳から、ぽろぽろと透明な水滴がこぼれ落ちていく。猿神の表情はとても穏やかで、いつの間にか山も雨が止み、太陽の優しい光がこちらを照らしていた。

「今度会うのはきっと、私の子供だろうね。」

斎木さんと"東雲"
これからも、人と猿神との約束は繋がってゆく。両者が約束を忘れない限り。
"約束"とは、明日を生きていく"希望"なのだと、改めて感じた。


しなやかに息をとめたあとで
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