部屋に差し込む光りと、壁から響く水音が五月蠅くて目を覚ませば午前十時。今日の講義は一コマ目から。慌てて枕にしていた作業台を叩いて起きて、うわああ!寝坊したと騒ぎながら着替える。もうとっくに最初の講義には間に合わない、と気づいたのはせめて何か空腹を訴える胃に何かを詰め込もうとして冷蔵庫を開けた瞬間。

中身は、見事なまでに空っぽだった。

そりゃそうか。だって、一日のほとんどの食事はトリが作っていてくれて、それを自分は当たり前のように食べていただけなのだから。食材なんて購入したとしても、冷たい箱の中ですら腐らせる。それに呆れたトリが、もういいからお前、俺の部屋で食べろ、と言い出して、その言葉に甘えたのは大学に入学したばかりの遠い昔。

随分とトリに甘えすぎていたのだと、今更ながらに自覚した。次の講義の時間までにはまだ相当時間がある。けれど一人寂しくこの窮屈な空間で少女漫画を描き続けるという行為が、どうにもこうにも耐えられそうがない。だから扉を開いて、鍵をかけた。

隣人は留守らしい。しん、と静まりかえる隣の部屋の扉を一瞥して、マンションの出口へと足を向けた。トリの手料理を食べることを止めて、今日が丁度一週間目だった。

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「どーしたの、吉野くん。最近随分と落ち込んでるみたいだけど」

全ての講義を終えて、サークル部室へと足を運べば後ろから唐突にむぎゅうと抱きつかれた。途端、相川先輩、苦しいですと言えばまあまあ、そう言わずにあと一分我慢しろと無茶を言われる。そうやって窒息死の恐怖の犠牲になった者の人数はきっと数え切れない。一分あったら短い小説が読めます、と言い返すと、相川先輩はあっさりとその手を離した。

「私への扱いが随分うまくなったじゃない?」

肩を竦めながら苦笑いする先輩が、それで、本当は何に悩んでいるの?と前髪をわしゃわしゃと掻きあげながら告げてくる。一之瀬や杏もそうだけれど、相川先輩もかなり美人だよなと間近で見ながら思う。さばさばしているように見せかけて、一瞬にして人の不調を見抜いて、雰囲気を落とさぬまま沈んだ心を和ませようとする。マンモスサークルを一人で創りあげた敏腕さを見せる一方、こういう先輩の優しさがあったから今の今まで続いてきたのだろう。だから俺も、不純な動機で入会したのにも関わらず、三年間ここに居座り続けたのだ。

「…そのですね、今の課題が余りうまくいっていなくて」
「課題って、月初めに出したうちの課題よね?別に期限を決めてるわけでもないから、そんなに焦らなくても大丈夫だと思うけど」
「いえ、そういうことではなくて」

けれど、相川先輩がいくら気の置けない人だったとしても、真実なんて言えやしない。数十年来の親友に彼女が出来た。それだけの事実に、自分が滅茶苦茶にショックを受けているだなんて。言えるわけがない。

彼女と、付き合うことになった。トリからその報告をうけた瞬間の記憶はあまり覚えていない。何も見ず知らずの人ではなく、何年も一緒にいた大事な幼馴染の告白だ。言うべき祝福の言葉はいくらでもあったはずだ。なのに答えた台詞といえば、あ、そうなんだ、という何とも素っ気無いもの。それくらいに、おそらく自分は動揺していたのだ。

言いたいことは山ほどある、でも何て言っていいのか分からない。何でもかんでも思ったことを口にする自分にとっては、初めてのことだった。そして、その状況は今現在も尚継続していることで。

「どれどれ。じゃあ、先輩が見てあげましょう」

そう言って、自分が手にしていた原稿用紙の入った封を取上げて、勝手に中をがさごそとあさる。実は今日ここに一人で顔を出したのも、それが本来の目的だった。言葉が足りない、一之瀬にそう指摘され、できる限り台詞を多くしたつもりだ。けれど、いくら言葉を多く用意しても、所詮テーマは人魚姫。口の利けない主人公である彼女は、語る言葉を何一つ持たない。だから、文字を書き込んでいるうちに限界が来てしまうのだ。

「絵とかはやっぱり上手いのよね、吉野くんは。だだ、何だろうね。いまいち何が言いたいのかよく分からないっていうか。人魚姫とその姉達が魔女と戦って人間のまま声を取り戻して、王子とめでたく結婚。悪くない、と思うわよ。悪くはないけど、何かが違うのよね」
「…俺の何が違うんでしょう?」

相川先輩の指摘はずばりだった。一之瀬の助言を受けて懸命に描き込んでいるうちに、実は自分でもどんどん分からなくなっていった。俺が描きたい人魚姫というのはこんなものだったのか?そんなふうに一番最初の原点すら見失いかけている。まるで路頭に彷徨う迷子みたいに。

原稿用紙を二つに分けて、それを見比べて彼女は言った。

「吉野くんはさ、人魚姫の気持ちを本当に分かってる?」
「人魚姫の気持ち、ですか?」
「うん。まーこういう女心って男の人には分からないものなのかもね。逆に男心も、女の人には伝わっていない場合の方が多いし」

言っている意味がよく分からない、という表情を浮かべると、相川先輩は小さく苦笑いした。

「人魚姫の悲劇性っていうのは何処にあるのだと思う?」
「…人魚姫の恋が叶わずに、泡になって消えてしまったところですか?」
「それも一つね。割と使い古されているテーマだから、聞くのも野暮だとは思うけど、一応尋ねておくわ。人魚は何故王子様を殺せなかったのでしょうか」
「人魚姫は王子様を愛していたから殺せなった。愛する人を殺してまで得た幸せを、幸せとは呼ばないから。愛する人を殺しては幸せになれないから、ですか?」
「ご名答。でも、人魚姫が悲劇の物語になった要因はそれだけじゃない。もう一つ存在するのよ」
「もう…ひとつ」
「これ、別にクイズじゃないからもう答えを言っちゃうわね。吉野くんは、もう少しそこを深く洞察するべきだと私は思うわ。よーく考えてみてね」


何故、人魚はその声を失ったのか。







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