遠い水面にうっすらと光が見えた。ゆらゆらとうねる波に浮かぶ体は果てない底へと落ちていく。金色の髪が一筋流れた。口から漏れる気泡が、ごぽりと鳴った。無数の空気の塊は、やがて一つに固まって、水に濡れる体を暖かく包んだ。

翳していた光は、もう手には届かない。広がるは、何処までも深い暗闇。最初から分かっていた。こうなること。最初から知っていた。この恋が叶わぬこと。ぽたりと涙がこぼれた。けれどそれすらも泡と成り果て、私が私を消し始める。

最後の力を振り絞って、その手を伸ばした。包んでくれた掌は、既に他の人のもの。私は貴方に何も残せなかった。何も届けられなかった。後悔ばかりの選択肢。けれど最後に選んだこの結末は、大丈夫。何一つ悔いてなどいないよ。

ただ、もし叶うなら。貴方に最後に一つだけ、言いたい言葉があった。叫ぶ声は飛沫に消されて、たとえこの声が枯れ果てても。どうしてもあなたに伝えたかった。


…です、…です、…から。…です、…です、…ことが。



私には…が…ません。けれど、…が…です。



私は…が…です。


地鳴りのような轟音が波とともにその泡を粉々と砕いてぱったりと、彼女の泣き声がそのままに途絶えた。

+++

自らの不摂生をこれほどまでに呪ったことは一度だって無かった。三日前の夕食が何だったを思い出せない人は意外と多いということは知っているが、少なくとも自分の場合は昨晩何を食べたかすらよく覚えていない。眩暈でくらくらする体を必死に起こして、考えてみる。そして、昨晩どころか昨日一日ほとんど何も食べていないという事実に至る。

どうりで、気分が優れないわけだ。

せめてコンビニで直ぐに食べれるものを購入しようとして、玄関口を出たところで一気に具合が悪くなった。あ、やばいと思う間もなく、壁に叩きつけられた体は力を無くした様にずるずると床へと引きずりこまれる。うずくまるようにして浅く吐き出される呼吸を整えていると、重なった慌しい靴音。昔からの独特のリズムのそれに、緊張の糸が途切れた。そのまま意識をなくして倒れて、目を覚ましたときには既にトリの部屋で寝かされていた。

「どうせまともな食事をとっていなかったんだろう」

開口一番の台詞だった。険しい顔をして眉をよせながら、まったくお前っていう奴は、とぶつぶつと文句を言っている。手渡されたのはありあわせで作ったという食事。の割には随分と体に優しい仕様に、えへへと喜びなのだかどうなのだか。よく分からない笑みだけが思わず零れた。

「あんまり無理するなよ」
「してるつもりはないんだけどね」
「してるから、倒れるんだろう」
「倒れても、こうやってトリが助けてくれるから大丈夫だよ」

何が大丈夫なのか。自分で自分の言っていることが理解不能だった。だって、仕方ないじゃないか。こうやってトリと二人で部屋で会うことも、こうやって他愛のない会話をすることすら随分と久しぶりで。だから少しだけ緊張しているのだ。何を話したらいいのか、羽鳥の表情を盗みながら考えて。考え抜いた結果がこれだ。もつ友人が少ないというわけではないが、コミュニケーションスキルというものをもっと身につけておけば良かったと僅かに後悔する。もしそうであったのなら、ここで気のきいた一言でも言えただろうから。

おそるおそる羽鳥の様子を確認する。仕方ないな、と口にして微笑む彼の姿が目の前にあった。

なあんだ、と思った。別に羽鳥と自分は喧嘩をしていたわけでもない。羽鳥に彼女ができっと事実はあるものの、それだけで羽鳥と自分の関係性に変化が訪れたというわけでもない。現在に些細な変化が現れたとしても、彼と二人で築き上げてきた歳月は覆すことは出来ない。今が変わったからといって、過去が変わるわけでもない。羽鳥は俺にとって数年来の幼馴染で、誰よりも大切な親友。その定位置が脅かされることなんてないのだ。

ほっと息をついた。悩んでいたというわけではないが、胸のつかえが少しとれた感覚だった。変わらない、変わらないのだと自分に何度も言い聞かせた。だっていつもと同じように、羽鳥は自分に優しいし、こうやって律儀に食事の用意だってしてくれる。一つのほこりすら見つからない整理された部屋の中は相変わらずだけれど、その部屋はいつだって俺の部屋の隣にある。俺は羽鳥のすぐ隣にいる。ただ、触れ合う時間が他の人に割いた分、少なくなっただけなのだ。一日はどう頑張っても二十四時間しかないから、どこかにプラスがでれば、何処かにマイナスが出るものだ。だから、しょうがない。

こんなことで気分が上昇するなんて、我ながら現金な奴と思わざるを得ない。活き活きと準備された箸を掌にとり、与えられた食事に手を着けようとしたときだった。


明らかに女物の髪飾りが、部屋の床に落ちていると気づいたのは。


「ああ、彼女の忘れ物だ」


体中からさっと血が引いていくのが分かった。何かを声に出そうとして、何を言えばいいのか考えて、思考がいつまでもまとまらずぐるぐるとして、それどころか真っ白になって。機械みたいに作りたて料理を口に押し込んで、早々に咀嚼してごくりと勢いよく飲みこんだ。胸のざわつきが止まらない。背筋を這うような焦燥感に、思わずぶるりと首を震わせる。舌に残る味と吐く息が、どこまでも苦い。


おかしいな。


トリの料理って、こんなに不味かったっけ?







×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -