「なーんか違うのよねえ」

並々と注がれたコーヒーにミルクと角砂糖をぽちゃりと入れて、ぐるぐると匙で掻き混ぜながら一之瀬が言った。コーヒー独特の匂いが鼻腔を掠める、と同時に甘ったるい香りが隣に座っている杏の方向から漂ってくる。頂きます、という言葉と共に彼女は大粒の苺が飾られているショートケーキをも口に運び始めた。

完全に誰得情報だとは思いつつ、少し説明させていただくと、一ノ瀬さは大のケーキ好きだ。見た目はかなり落ち着いた大人っぽい印象を人々に与えているが、実はこれで結構可愛らしい部分もあるのだ。ケーキは見ても芸術、食べても芸術!と目をキラキラに光らせてどれを食そうかと選ぶ姿は、まるで誕生日のケーキをどれにするか迷う少女と同じように愛らしい。

けれどそれは数少ない友人の目の前でしかやらない所業なのだと本人は語る。一之瀬さんと言えば、サークル内で、否大学内で唯一少女漫画家としてその将来を約束されている人物だ。サークルに入会している中では勿論、大学内、はたや大学外においても、漫画家を目指す者たちは、是非一ノ瀬さんに自分の漫画を読んでもらってアドバイスを乞いたいと主張するのだという。その気持ちは、自分も一之瀬さん目当てでサークルに入会したのだから、分からなくもない。

けれど当の本人にとっては、それはえらく迷惑な行為らしい。助言が欲しいのなら私じゃなく出版社を当たれ!と冷酷に門前払いするのが彼女の手法ではあるが、それでも中にはそんなあしらいを物ともせずにしつこく食い下がってくる輩も存在するのだという。

オーケー、分かった。そこまで言うのならお前達の言うとおりにしてやりましょう。ただし、タダではやらない。だからといって学生の身分で金銭の受取りなんてしない。物々交換といきましょう。私の好きなケーキを奢りなさい。一個や二個とかケチらずにワンホールで奢んなさい!

という過去の経過から一之瀬絵梨佳にはワンホールクイーンという二つ名が存在する。本来は、それくらい払う覚悟がなければ諦めろという彼女なりの最後の忠告のつもりだったらしいが、それでも申し立てる人間は少なくなく結果その称号を得た形になったとのこと。うまい言い訳だと思ったのに、かなり不満よ、と本人は口をぷうと含まらせながら怒ってはいたけれど、目の前に食べ散らかされた菓子の残骸を確認すれば、その指摘はあながち間違っていないなと思えた。

大学近くにあるこの喫茶店は彼女達のお気に入りだった。人通りの多い路地から少し離れた場所に隠れるように潜む隠れ屋。客の数は少なく、流れるは緩やかな曲と時間。彼女達はそんなこの店の雰囲気をこよなく愛しているのだ。

千秋の対価は普通のケーキで良いわよ。一ノ瀬はそう告げた。友達だからね、と照れたような笑みを浮かべて。まるで人ごとのように語ってしまったわけだが、自分も一ノ瀬から助言を頂きたい人間の一人だった。けれど、前述のような状況を目の前で目撃しておきながらそんなあつかましいお願い出来ないよなあ、とうじうじとしていた自分を見るに見かねて彼女の方から切り出したのだという。

友達なら見返り無しでやってあげるべきなんでしょうけどね、千秋は逆に嫌がるでしょ。

彼女の意見は的確だった。その頃にはもう自分は一之瀬の友人だという自覚はあったものの、だからといってその肩書きを乱用し、彼女だけに不公平を強いるつもりは毛頭無かった。むしろワンホールケーキを奢るのは個人的には問題ないけれど、友人である俺がそんな他人行儀みたいなことをしてしまえば、かえって彼女が恐縮してしまうのではないかと。そんな恐ればかり抱いていた。だから一之瀬の言葉は本当にありがたかった。友人としてのささやかな貸し借り。彼女の妥協案は友人と他人の境界を明快にしつつ、それでも自分を思いやってくれていたものに違いないから。

他のみんなには内緒ね、と言って初めて連れてこられたのがこのお店だった。聞けば一之瀬と杏は昔からこの店の常連だという。自分のお気に入りの店だからお気に入りの人しか連れてこないの、と言う彼女らの言葉が無性に嬉しかったのをよく覚えている。そこで自分の描いた漫画の原稿やネームを見てもらうのが、数年前からの習慣だった。

「うーん、題材も素材も悪くはないんだけどね」

汚れないように原稿用紙をトントン、とテーブルを叩いてまとめ、分厚くなった紙束をはい、と俺に向かって渡してくる。それを受取ると、これでもう汚す心配がない、とばかりに一之瀬はコーヒーと、目の前におあずけされていたガトーショコラに手をつける。瞬間やや険しい表情だったそれが、満面の笑みへと変化する。

「なんだか、いつもいつもごめんね」
「千秋が謝る必要なんてないわよ。こうやって報酬を貰ってる限りは、二人とも対等なんだから。言っておくけど、千秋のレベルは相当高いんだからね。だから他の連中と同じように適当になんて扱えるわけないし、こっちも真剣にならざるを得ないのよ。厳しいことを言ってるようだけど、これでも私、千秋には期待してるんだから」
「うん。絵梨ちゃん、千秋たんのまんまはおもひろいっていつおいってふ」
「…杏、貴方ね。しゃべるか食べるかどっちかにしなさいよ」

口の中に零れんばかりのケーキを詰め込み、もぎゅもぎゅとハムスターのように咀嚼する杏の姿を呆れたように、それでもしょうがないなあ、というように一之瀬が眺めている。そんな彼女達を他所に、俺は帰ってきた原稿用紙に沈黙したまま目を落とす。

何かが違うと言った一之瀬。一体自分の何が違うのか、必死に粗探しをしてみても結局は見つからない。それもそうだ。だって結局彼女に見せるものは、自分の中では太鼓判を叩いたもので。文句のないお話だと自分が思っているのなら尚更、最初から見つかる粗など無いのだから。

「千秋には、言葉が足りないのよ」

自分の心を見透かすように、一之瀬の言葉が耳に届いた。フォークで優雅にケーキを串刺しながら苦笑いまじりに彼女は語る。さらりと肩から緩やかなウエーブを描いた髪が、一筋空を切った。

「絵やその表現方法で感情を伝える術を持つ千秋の才能は、正直言って私でも感嘆するほどよ。でも、それに頼りすぎっていうのかな。余りにも台詞や気持ちを表す言葉が少なすぎる。言葉以外のものを駆使して読者の感受性に訴えること自体は間違ってはいないけれど、だからこそ逆に言葉で伝えなくてはならないこともあるの」


彼女の今日のアドバイスは、それが全てだった。


いつもの通りに伝票を手にとって会計所に向かおうとすれば、一ノ瀬の声がそれを制止した。今日は自分で払うわ、と手にしていたバッグから財布を取り出し始める。え、でも、そんなことしたらお礼にならない、という気持ちを表情に出すと、一之瀬は違うのよ、と首を右斜めに傾けた。

「今回のお礼はケーキじゃなくて、他に千秋にお願いしたいことがあるの」
「お願い?」
「千秋の知り合いのハトリって言う人?…を私に紹介して欲しいの」

彼女がそう告げた一瞬だけ、息を止めた。

羽鳥という人間は意外にも女性に好かれるタイプの男だ、と気づいたのは大学に入ってからだと記憶している。中学生高校生とは違って、校則でかんじがらめにされない大学の雰囲気というのは、自由意志を増長させるのだろう。恋愛をしたい、と思えるのも多分一つの例に過ぎない。それを理解したと同時に、羽鳥に対する女性からのアプローチは増えたと思える。しかもそれは本人だけでなく幼馴染の自分にも牙を向く。

羽鳥くんって、どんな子が好きなのかなあ?

屈託のない笑顔の中に底知れぬ黒い感情を今まで何度目にしてきたことか。彼を手にいれたい一心で自分を頼ったというところまでは許容範囲と言えるが、付き合えるようになるまで協力して、などと言われた時にはたまったものではない。彼は自分の大切な幼馴染であるのだから、そんな裏表のある人間をトリの隣に置いてたまるか、と今まではその申し出をご丁寧にお断りさせていただいていた。

けれどそれが一之瀬の頼みごととなると話の勝手が違う。自分が既に彼女に助言を頂いたという不利な立場にあるということは言うまでもないが、それ以上に自分は一之瀬という人間を良く知っているのだ。華やかで優雅な立ち振る舞いを見せる彼女は、クールや冷酷さという装飾表現を用いられることが専らだが、実は違う。彼女の内面はかなり面倒見がよくて、人に対する細やかな気遣いを忘れないほど優しくて、みんなのお願いを完全に断れないくらいは、情にも厚い。トリに近づきたい、と言葉を漏らす女性達に比べて一之瀬という人間は、月とスッポンと例えてもいいくらい、それ位良い子なのだ。

「…会わせるくらいなら」

しぶしぶと告げれば、一之瀬はほっとしたような安堵の笑みを浮かべていた。トリには彼女のことを今まで散々話題に出してきたのだから、こちらが噂の彼女です、と紹介すればいい。幼馴染に大学の友人を紹介する。ただそれだけのことだ。そこから先どうするか、どうしたいかは彼女が決めればいい。俺にはそこまでする義務はないし、一之瀬自身もそこまで自分に何かされるのは嫌だろう。

けれど、彼女の笑みを見て思った。

例え一之瀬とトリを引き合わせたとしても、トリが彼女を選ぶことはないだろう。だって今までずっとそうだった。どんな魅力的な女性が彼に好意を示したところで、トリは微笑みの仮面を顔に貼り付けて、静かにそれを拒絶していた。おそらく、トリは女性と付き合うつもりはないのだろう。今までずっとそうだった。そしてきっとこれからも。



だってトリは、ずっとずっと前から。



俺のことが好きだから。






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