俺の住むマンションは四階立てだ。鉄筋コンクリートの骨組みむき出しみたいな冷たい建物。この建物を住まいとして暮らしている大半は、自分と同じような学生だった。大学へ進学すると共に一人暮らしを始めた理由とは、ただ単に大学が家から遠いからという分かりやすいもの。壁は割りと薄く、水周りの音がよく響いている。学び舎まで徒歩十五分。スーパーコンビニ徒歩五分。家賃は割りと安めとはいえ、立地条件はかなり微妙だ。なのに何故ここに住むことを決めたのかと言えば、他でもない、隣に住んでいたのがトリだったから。

出来立ての唐揚げを摘もうと手を伸ばしたら、ぺしりとその甲を軽く叩かれた。行儀が悪い、と睨みながら菜ばしで油をつつく羽鳥に、だって腹が減ったから、と子供みたいな言い訳をする。僅かな嘆息。皿の奥の方が最初に揚げたやつだから熱くない、せめて箸を使え、と低い声と諦めた視線を投げかける。言われたとおりに口にした出来立ての羽鳥の料理は、昔のままに美味だった。

空腹という緊急事態を乗り越えて、キッチンから羽鳥を残して一人部屋へと戻る。長方形の空間の中心にある四角いテーブルに平行を描くように、ばたんとその体を仰向けに横たえた。相変わらずトリの部屋は本ばかりだな、と唇を笑みの形に歪めた。自分の部屋も本だらけといえばそれまでなのだが、なんせ中身がこってこての少女漫画だ。しかも本だけでなく、原稿用紙やらトーンやらインクやらがセットになって煩雑に押し込められている状態だ。

その点、羽鳥は違う。部屋の壁の側面にそった品格ある木製の本棚に、きっちりとその本は収納されている。多分サイズ順だとか索引順だとか彼なりのルールに従って整理されているものなのだろう。少しの隙間さえなく埋められた本達。新しく本を手にいれたのなら何処に置くつもりなのだ、と聞けば古くなった本を実家に持って行っているとのこと。おそらくその実家の書庫とやらも、この部屋と同じ状況なのだろうな、とふと思った。

外は夕暮れ。珍しく赤紫色に染められた空のなか、グラデーションのように浮かぶ雲がふよふよとその中泳いでる。窓を閉めているから分からないが、大分風が強いらしい。時折、ごおおという音が壁越しに響いてくる。

この部屋は、羽鳥そのもの。きちんと整理されて汚れ一つも見当たらないというところなんて、彼の潔癖さを物語っているようなものだ。並べられた本は、彼の丁寧さや細やかさ。部屋に来るたびに全く変わらないその配置は、彼のルールというかこだわりというか。そういった芯の強さを表している。そうして、部屋を穏やかに包む空気は、彼の優しさを。

「吉野、夕飯できたぞ」
「あ、うん。分かった」

言いながら状態を起こすと、いつの間にかテーブルには出来たての料理が並べられていた。白飯に豆腐と油揚げの味噌汁。鳥の唐揚げに、ワカメと胡瓜の酢の物。そしてデザートらしい皮のむかれた林檎の甘煮。作り上げた本人は、そんなに豪勢な料理でもないのに喜ばれると困る、と申してはいるが、料理をほぼしない自分にとってはご馳走そのものだ。こういう時つくづく自分はトリの隣の部屋に住むことを決めて良かったなと思う。腹が減ったらすぐ駆け込めるし、体調を崩せばすぐに呼べる距離。幼馴染としてトリと二十年以上過ごしてきたわけだが、そんな二人の空間が自分はいたく好きだった。

箸で料理を口に放りこむ最中、羽鳥の鞄から見覚えのない本が顔を出していた。目をこらしてタイトルを確認してみれば、「エントリーシートの書きかた」という文字が見て取れた。

「何?」
「んー、いや。もうそろそろ就職活動の時期かなって」

自分の意識が飛んでいることを流石の羽鳥も気づいたらしい。同じように視線を辿ってその本を見つけると、ああ、と口にしながら頷いた。

「もう三回生だからな。今から準備して早すぎるということはないだろう」
「トリってやっぱり出版業界目指しているわけ?」
「まあな。でも入社できるかどうかは分からないけど」
「出来るよ、トリなら」

言い切ってみせると、羽鳥は少しだけ目を開いて、次の瞬間くすりと笑った。お前がそう言うのならそうかもな、とだけ言葉を残して、彼は止めていた食事を再開する。これだけ読書好きで真面目で勉強家で努力家な人間なんて、今まで自分は羽鳥以外見たことはない。
何も欲目で言っているわけではないのだ。二十年間一緒にいたからこそ、自分には分かるのだ。羽鳥がどれだけ素晴らしい人間なのかを。


それに比べて、自分はどうなのだろう。少女漫画家になる、という夢をずっと持ち続けてはいるが、それを叶えることは出来るのだろうか。こうやって一番近くにいた親友がちゃくちゃくと社会人へ進むステップを踏んでいる姿を見てしまうと、どうにもこうにも不安になってしまう。下らない夢なんか捨ててしまって、自分も就職活動をすべきなのではないかと迷ってしまうのだ。

「俺、本当に少女漫画家になれるのかな」

ぽつりと本音が零れた。けれどそれを確かに耳にしたはずの彼からは、返事が無かった。

+++


夕食の片付けを手伝った後、部屋の中心へと寝そべった。手を伸ばしてテレビのリモコンを取り、電源を付ける。途端現れるドラマのワンシーンを薄目で眺めた後、瞼を閉じる。満腹を感じた後というのは、どうしてこんなにも眠いのだろうか。早く起きなければとは思いつつ、重く閉じた瞳は開くことすらままならない。そのうち体までが睡眠をとる態勢へと変化していく。

流れ出ていたテレビからの機械音がぷつりと消えた。吉野、寝てるのか?と羽鳥の声が遠くで聞こえるけれど、それに応答するまでに至らない。そこまで眠気に対抗する気力はもうない。小さな溜め息と共に、傍らで羽のように囁く羽鳥の声が耳に届いた。


「出来るさ、お前なら」

それはきっと、夕食時に尋ねた自らの不安に対する彼なりの回答。

そういうの、何であの時に言わないのかな、と内々には思いつつ、けれど口には出せるわけもない。優しさを含んだ彼の言葉に泣きそうになりながら、気づかれないように目を閉じたまま、ぎゅっと掌を握り締めた。


トリは、こういう男なのだ。






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