自分達はお邪魔のようなので、席を外しますね。

そんな言葉を残して、律っちゃんと嵯峨くんはさっさと部屋を出て行ってしまった。ちょっと、二人とも待って!という情けない声は容赦なく閉じられた扉の音に掻き消されてしまう。無音の部屋に取り残されたのは、俺と雪名の二人だけ。

なんでどうして雪名がここにいるんだよどうしてああ、もうなんだって!先ほどから頭の中でぐるぐるしているのはそんな言葉だらけ。パニックを通りこして大爆発しそうになる頭を抑えながら、強い視線を感じて、おそるおそる自分の目の前に立つ雪名を見た。

動揺する自分とは真逆に、雪名の表情は恐ろしく無表情だった。突然姿を消した自分を怒るでなく、責めるでなく。一週間ぶりの再会を喜ぶでなく、楽しむでなく。今までこいつの家庭教師を数ヶ月やってきたけれど、こんな無表情な雪名を見るのは初めてだった。

と同時に心が急激に冷えていく。混乱していた頭がみるみる冴えていく。そうだ、こういうときに自分が落ち着かなくてはどうする、と無理やり何とか心さえも宥めた。そして、自分自身に問いかける。

雪名は何の為にここに来た?

…そんなの家庭教師としての自分を取り戻しに来たに決まっている。

導き出されるごもっともな解答に嫌気がさした。俺、今まで何を考えていた?まさか雪名が自分に会いたくて会いたくてたまらなくて、俺を追ってやってきたとでも?どんだけご都合主義なんだよ。最近少女漫画ばっかり読んでいたから、少し当てられたからか、と自嘲した。そんな期待、もうとっくの昔に捨ててしまったものだろう?何を今更。

「よく、俺がいる場所が分かったな」
「色々と苦労はしましたよ。それなりに」

声をかけると、それにすぐさま雪名は反応した。まだ無表情ではあるが、無反応ということではないらしい。返事がかえってきたことに少しだけ安堵した。表情はどうあれ、話が通じるというだけ有難い。九つの年齢差は、こういう時に非常に役に立つ。雪名と俺とで話合いなんて必要ない。彼の言葉の飲み込んで言いくるめて、宥めることくらい、成人である自分には動作もないこと。狼狽しているときは別として、冷静になった自分に論破できる人間なんてめったにいない。だからお前も例外じゃない。

一週間ぶりに会う雪名の姿。それが、何年も前に親友として一緒に居た、スイのそれと重なる。本当にそっくり兄弟だよな、と思いながら唇を笑みの形に歪めた。楽しいわけじゃなく、なんだか無性に悲しくて。夕陽の赤が、繊維のように滑らかな彼の髪に色を落とす。お前から見ても、俺の体も同じように赤くなっているのかな。お前には、自分がどう見えるのかな、と考えながら息をつく。俺には、そんなつまらない表情を浮かべていても、それでも愛しく感じるよ。

どうして家庭教師を辞めたのか。そして、どうか戻ってきてくれないか。雪名の質問はおおよそそんなところだろう。仕事を辞めたのは、やっぱり学業を優先したいから、と彼の母親に告げた理由と同じでいいだろう。学生の本分は学業であり、それは家庭教師という仕事をしているが故に、更に重みを増す言葉だ。勉学を教えるものが、勉強しなくてどうする。だからそのデタラメな理由は大変もっともらしい理由となる。

どうか戻ってきてくれないか。答えはノーだ。自分には戻る気なんてさらさらない。最初から戻る気があるのなら、仕事を辞めたりなんかしない。お前の側から離れたりしない。けれどこれは口に出して伝えることが出来るわけもなく、忙しいから無理、という言葉に代言させる。本当に、全部が全部嘘まみれだ。

「どうして突然、俺の前からいなくなったんですか?」

よし!どっからでも質問をかければいい!と意気込んで雪名に向かいあえば、彼はそんな台詞を口にする。家庭教師を辞めたのか、ではなく、いなくなったのか、という文章の違いに若干違和感を覚えつつ、最初の解答を提示してみる。どうせ質問の中身はほぼ同じようなものなんだし。

「あーうん。お前の母親には言ったけど、雪名にはちゃんと説明しなかったよな。悪かった。ちょっと大学の勉強の方が忙しくなってな、それで…」
「そんなことはどーでもいいです!なんで俺から逃げたのかって聞いているんです!」

今まで無表情を続けていた雪名が、突如怒りを顔に現せた。そんな彼の突然の変容と、その言葉に酷く動揺する。逃げている、という単語一つに。先ほど後輩から与えられた同じ文字に。うろたえるな、と懸命に自身に言い聞かせた。胸の辺りに手を乗せればどくどくといつもより早い動悸を感じる。ああ、もう。だからこいつは。

真剣な眼差しを自分に向ける雪名の姿。本当に、お前って完璧なくらい格好いいよな。だからお前の顔が大好きだよ。お前の声も、呼吸の仕方も、木佐先生と自分を呼ぶときの表情も。時折、意地悪な笑みを浮かべるそんなお前も。何もかも。

雪名、俺、お前が好きだよ。でも、だから。

「雪名。お前に俺は必要ないよ」

ごめんな。これ以上お前の側にいることが好きすぎて辛い。本当にごめん、隣でお前と一緒に笑っていられる自信も、もうこれっぽっちも残っていやしないんだ。今までずっと黙っていたけれど、俺はお前が好きだよ、雪名。でも自分の心をこれ以上隠すのは、もう無理なことだから。

ああ、泣きたい。ここで泣き出せたらどんなに幸せだろう。自分の感情もろとも溢れさせることが出来たのなら、どんなに幸福だろう。でも、出来ない。絶対に言えやしない。家庭教師としても、年上の一人の人間としても、雪何一つ教えて、与えてやれなかった自分だから。彼をこれ以上困らせたくない。嫌われたくない。だから突き放すしかない。それがこんなに苦しくて、酷く悲しいことであったとしても。

「どうしても少女漫画好きの家庭教師が良いってお前が言うんなら、俺が探してやるよ。こうみても結構顔が広いから」
「木佐先生」

自分の名を呼びながら、雪名はつかつかとこちらに向かって歩いてくる。その怒りの気迫に圧倒されて、思わず後ずさると、いつの間にか後ろが壁になっていた。目の前には雪名。逃げ場をなくした、と気づいた頃には遅かった。

状況を理解した瞬間、だん、と音をたてて雪名に掌が壁に打ち付けられた。自分の右頬に風が切る。その衝撃に固まっていると、確認出来たのは近すぎる距離の雪名の姿。

「俺の気持ちを、そうやって勝手に推し量らないで下さい。木佐先生が俺の何をわかっているというんです?」

今まで見たことのない荒々しい表情を至近距離で見たせいか、喉の奥がひくりと鳴った。再度混乱を始めた頭の片隅で、思う。やっぱり誤魔化した理由では彼に通用しなかったか、と。嘘をつかない雪名は、嘘をついている人間の嘘を簡単に暴くことが出来るのだ。それは凄い才能だと思うよ。けどな、雪名。

つかなければならない嘘だってあるんだよ。誰かの為に嘘をつき続けることが必要なときだってある。分かるかな、雪名。自分に嘘をつき続けることが、どんなに苦しいか。そんな苦悩を覚悟してさえ嘘をつこうとする俺が、どれほどお前のことを好きなのか。

「そうだな、俺、お前のこと何にも知らないもんな」

無理やりに笑顔を作って言ってやった。そうだったな、俺たちは会ったとしても、いつもいつも少女漫画の話ばかりしてたもんな。好きな食べ物、も嫌いな食べ物も、好きな運動も、好きなテレビ番組の話しだって、何一つしなかった。でも、そんなの当然だ。俺が敢えてそういう質問をしなかったのだから。だって、お前のことを知って、ますます好きになることが怖かったから。

「俺のことを知りたいのなら、何でもいくらでも教えてあげます。全部、教えます」
「……雪名、あのな、もうこれ以上話しても」
「でも、最初の一つくらいは、俺に選ばせてください。自分から言わせてください」

自分の声を遮っての言葉。彼の表情をすぐ近くで直視して、ようやく気づいた。雪名の瞳は怒りの現れではなく、悲しさのそれ。怒っていた顔は、泣き出しそうな表情へと印象を変える。泣きたいのは俺のはずなのに、なんでお前が今にも涙を零しそうになってんの?と、その頬に思わず手を伸ばしそうになった時だった。

「好きです」

その台詞を聞いたのは。

「……は?」
「だから、俺は木佐先生が好きだと言っているんです」
「…あー、うん。俺もそりゃあ雪名は大事な教え子だから、好きだけ」
「そういう“好き”じゃなくて、恋愛感情の“好き”だと言っているんです!」

雪名の言葉に、いよいよ頭が混乱を始めた。自分に都合のいい解釈ではないと言い聞かせるも、出した考えすらすぐさま否定されて。それどころか、何だかとんでもないことをさらりと言われた気がする。うん。何だ。この展開。俺、担がれているのだろうか、と本気で思い始めて、俺男なんだけど、という言葉がうっかり口から零れる。

「男だろうがなんだろうが、関係ありません。俺は木佐先生が好きなんです」
「…嘘だ」
「俺は、嘘をつきません」

からかいなど微塵も見せない雪名のいつもになく真剣な表情に、思わず息を呑んだ。そうだ、雪名は。今まで一度だって俺に嘘をついたことはないじゃないか。そんな嘘をつかない彼だからこそ、俺は好きになったんじゃないか、と。

今更ながらその事実に気づいて、彼の言葉がようやく本物であることを知って。全身の血流が一気にぐるぐると流動を始めた。頭に血が上って、自分が今どういう状況にあるのか理解すら出来ない。多分、全身が真っ赤になっているんだろうな、と冷静さが僅かに残る脳を使って、彼の名前を懸命に呼んでみようも、ゆ、き、なと文字の一つずつしか声を発することが出来ない。なんだ、自分。赤子でもあるまいし、馬鹿みたい、と自嘲しながら、泣きそうに歪んだ顔を元に戻すことすら叶わない。

それでも、ぎゅう、と彼の服を思いを込めるように少しだけ握ると、雪名は俺の体をゆっくりと優しげに引き寄せるように、抱き締めて。耳元で囁くように、俺に向かってこう告げたのだ。

だからちゃんと、終わらせましょう、と。





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