本日のサークル活動は、美濃と羽鳥が急用の為、残り三人のみの執行となる。内一人である律っちゃんは同じく用事が有るとのことだが、お休みではなく遅刻します、と先ほど携帯に連絡があった。そんなこんなで部室には自分と嵯峨くんの二人のみ。うーん、俺、嵯峨くんとはめったに二人きりになったことってないよなあ、とぼうっとしながら考えていると、その当の本人が静かに口を開いた。

「木佐先輩、なんだか元気が無いって律が随分心配してましたよ」

自分の心情など隠し通すつもりだったし、現に隠し通していると思っていた俺の思い込みは間違っていたらしい。

流石律っちゃん。俺が目を留めただけある子だな、と妙な感心を覚えてしまう。あの子は、無意識のうちに人の心を簡単に察することが出来るのだ。そういう意味では、美濃も似たようなものでもあるのだが。けれど二人には決定的な違いがあって、それは律っちゃんには人の心を察した上で、更にその心を癒せるということ。

こういうのって言葉にするとかえって分からないような気がするけれど、話しているだけで、側にいるだけ心が満たされていくような人間は、探せば案外見つかるものだ。ただ相性というものが若干有る程度で。心を癒せる能力があったとしても、相手がその能力をはるかに超える負の感情を持っていたのなら、その能力というものはまるで無意味だ。生半可な心では、傷つき折れてしまった精神は救えない。そうやって、今まで誰も救えなかった嵯峨くんの為に、自分が見つけたその子が律っちゃんなのだ。

だって、「幸福論」だよ?「幸福論」。そんな本を読んで笑うなんて、世界中を探しても律っちゃん一人くらいだ。この子なら、嵯峨くんを「幸福」に出来る。そう信じたから、この部屋に連れてきたのだ。その予感は嬉しいことにおおよそ的中していて。実はお互い高校生の頃から知っていた、という言葉で確信に変わった。

少しでも自分の後輩くんが幸せになれるようにとの策略。その結果、見事それは成功し、今の二人の関係性を産んだわけだが。それにしても。

「嵯峨くんさ、本当に律っちゃん好きだよね」
「好きですよ」

とんでもない質問に平然と何でもないように答えるその姿は、どっかの誰かさんによく似ている。はいはい、ごちそうさま。あんまりにきっぱり言う彼に、何だかこっちが恥ずかしくてたまらなくなってしまう。この二人が良い意味で結ばれたらいいな、と内心ずっと思っていたことだが、何だかこういう展開はあまり予想していなかったな、と思う。嵯峨くんが、こんなにも律っちゃんを好きになるだなんて。

「あのさ、嵯峨くん」
「何ですか?」
「男同士で付き合うって、大変じゃない?」
「…まあ、異性と付き合うよりは結構大変でしょうね」
「だったら、別れる気にならないの?」
「…木佐先輩は俺と律を応援しているんですか?それとも反対しているんですか?」
「うーん、どうだろうね。俺もよく分かんない」

そんな自分の曖昧な態度に、嵯峨くんは少し諦めたような表情を浮かべた。おお、いいねえ、その表情。なんだか羽鳥を思いだすよ。後輩にも遺伝ってあるのかな、と考えつつ一人でくつくつと笑っていると、それを制して嵯峨くんが言った。

「別れる気なんてありませんよ。アイツが別れたいって言っても別れません。そうならないように努力はします」



…努力、努力ね。またその言葉か。



窓枠の中に浮かぶ夕陽を眺めながら、今頃雪名はどうしているのかな、とふと考えた。あの事件の後、逃げるように家に帰って、その後彼の母親に辞職の旨を連絡した。母親はそれを大層残念がっていたけれど、学生ならお勉強を優先するのが当然よね、といって渋々了承してくれた。彼から離れるためだけについた小さな嘘。それはいかにも、もっともらしくは聞こえるが、実際の理由からはあまりにもかけ離れている。だって、言えるわけがないだろう。お宅の息子さんにこのままだと本気で手を出しそうなので辞めます、なんて。

雪名は俺がもし家庭教師を辞めたとしたら、何が何でも連れ戻す、とか何とか言っていたけれど、それはただの想像で現実には起こりえない。いつか空を飛べるかもしれない、という子供の戯言と同じく彼の言葉は現実味を持たない。

そんなこと、最初から分かっていたんだ。辞めようと思えばいつだって家庭教師の仕事なんて辞めれたこと。なんだかんだ理由を付けて、雪名の元に戻らないことくらい、いとも容易く出来ること。中学生の雪名に、一体何が出来ると言う?

分かっていたんだ。彼にはそんな気が無かったとしても、雪名が自分を必要としてくれたみたいに感じて、それが嬉しかったこと。全部が全部自分の妄想だって事くらいは。

まだ若い雪名だもの。俺が彼の隣に存在したことなんて、時間が経てばきっとすぐに忘れてしまう。

…まずいよなあ。何だって雪名のことを考えるだけで、こんなにも胸が苦しくなるのか。どうしてこんなに泣きたくなるのか。けれどもまだ俺は一度たりとも泣いてはいないのだ。泣きたくても、泣けないから。だからこんなにも苦しい。そのうち俺は呼吸が出来なくなって、死んでしまうのかもしれない。それは嫌だな。死ぬのは嫌だな。せめて大人になった雪名を一目見てから息絶えたい。

嵯峨くんの心を律っちゃんが救ったのだというのなら、俺のこの無駄な感情は、いつ、誰が救ってくれるのだろうか。




突然、携帯電話の着信音が部屋の中に響いた。自分には聞きなれない音だったので、それがすぐに後輩君のものであると分かる。ちょっと失礼します、とだけ声をかけて、ああ、うん。分かった、待ってる、という短い会話を続けて、彼は電話を切った。相手、律っちゃんかな?多分そうだな。嵯峨くんに電話をする相手なんて、電話越しですらあんなに穏やかそうな表情を彼に浮かべさせることが出来る人間なんて律っちゃんくらいしかいないもんね。

「木佐先輩」
「うん?」
「先輩が前、俺におっしゃった言葉、覚えていますか?」
「え?何か俺嵯峨くんに言ったっけ?」
「ええ。”いつまでそうやって逃げてるつもり?”と」
「…ああ」


うん言った。確かに言った。彼の言葉にようやく思い当たって、その時のことを鮮明に思い出す。嵯峨くんと律っちゃんに、何だかよく分からない大きな亀裂みたいなのを感じて、心配になって、それでも挑発するように彼に投げかけた言葉だ。

「俺、それで目が覚めたんですよ。逃げていたから、今まで手に入るものだって手に入らなかった。そのことに、ようやく気づけたのはあの言葉があったから。だから木佐先輩に感謝しているんです。それはどうやら律も同じようなので。だから、これから先輩にそのお礼をしようと思って」
「え?何?お礼って」
「今に分かります。あ、あと最初に、俺からの餞別も渡しておきますね」
「餞別?」

尋ねると、彼はふうと一息つい後、大きく息を飲み込んで。まっすぐにその視線をこちらに見据えて、まるで過去の自分がそうしたように悲しげに哂いながら言ったのだ。

「木佐先輩は、いつまでそうやって逃げてるつもりですか?」

彼の声が耳に響くと同時に、大きく部屋の扉が開かれた。驚いて振り向けば、そこにあるのは律っちゃんの姿と、後ろにもう一人。それが誰であるかを確認出来たとき、完全に思考回路が停止した。頭が真っ白になって、驚きで声すらあげることも出来ない。

以前頂いた言葉、そのままそっくりお返ししますね、と後輩は笑いながら口にした。扉付近に立つ律っちゃんが、中にどうぞと外に佇む人物を部屋の中に招き入れる。俺はといえば、頭の中が大混乱中だ。どうしてどうしてなぜなんで、頭の中をぐるぐると疑問符が回っている。ああ、もう、だから、雪名。


こんな場所にどうして。なんでお前がここにいる?




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -