正直に言う。一度だけ、たった一度だけ、昔スイの唇に口付けようとしたことがあった。

それはやっぱりスイが眠っている時だった。そんなチャンスは彼が眠っている時位しかなかった。白いノートを枕にして、幸せそうに目を瞑るスイ。小さく髪をひっぱって、目を覚まさないことを確認して。その薄い唇に、自分の唇を重ねようとして、止めた。

直前の直前になって思い留まった理由は、そんなことをしても彼が手に入らないと気づいてしまったから。この唇は、俺のものではなく彼女のもの。愛を語るのも、愛しく口付けするのも。相手は俺じゃない。俺であってはいけない。後悔したのは、思いとどまってしまった自分ではなく、そんなふざけた行為をしようとしていた自分にだ。


先日の夕食の際に見せてもらった、スイの花嫁の写真。まだ衣装は本決まりしていないけれど、とスイが少しだけ目を細めて幸せそうに見せたドレス姿の未来の妻。雪名の両親が綺麗なお嫁様ね、と嬉しそうに微笑んでいた。その表情が脳裏に焼きついて離れない。

だから良かったと思った。心から思った。もしあの時自分がスイに接吻したとして、そして何かの間違いでスイが最終的に自分を選んでいたのなら、こんな未来はきっと無かったものなのだろう。美しい女性と素晴らしい愛を育み、家庭を作って子供を成す。そんな当たり前の幸福を、スイから奪わなくて良かったと。

それを確認できた自分は、きっと幸せだったのだ。おそらく自分のことだから、もしあの時スイに口付けをしていたら、そのままの勢いで多分想いを言葉にして告げていただろう。答えなんて聞かなくても分かっている。こうやって目の前で自分の結婚話を嬉しげに語る姿を目の前で見れたことが、その不作為に対する小さなご褒美なのだ。

それなのに、それを分かっていながら。俺は雪名と唇を重ねてしまった。それはたった一瞬のことで、他人からは事故だと思って忘れてしまいなさい、と言われるレベルなかもしれない。けれど俺にとってその行為はそんな単純な意味ではない。雪名の当然の未来を奪ってしまうような、エゴの塊のような支配欲。それが自分の中に存在してたことに、俺は酷く驚愕したのだ。そうして、そんな自分が怖くなった。


雪名には、もっと綺麗な人が良い。


彼の隣にいるべきは俺じゃない。こんなに汚い自分じゃない。


彼には、もっと美しい人が良い。


良い大人のくせに自分の感情すらコントロール出来ずに暴走して、一瞬でも彼の未来を汚したことに、自分の浅ましさに絶望して。

だから俺は逃げたのだ。あの部屋から。雪名から。自分自身から。あまりにも自分が醜すぎて、そんな姿を雪名を見られたくなかったら。もう限界だと思った。これ以上雪名の側にいては駄目だ。彼を汚しては駄目だ。近くにいたら、もう自分は何をするか分からないから。


だから俺は雪名に口付けたその日のうちに、家庭教師の仕事を辞めた。



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