最後の我侭だった。さめざめと泣いて、それを手の甲で拭って。指の隙間を通る涙を感じながら、もう一度だけトリの声が聞きたいと思った。もう一度自分の名前を呼んで欲しいと願った。そこに何一つ感情が籠められていなくても、それでも良いから。今から言葉を失くす自分の為に。俺はトリの友人である。墓場までこの嘘を貫く為に。最後まで騙し通した嘘は、きっと真実になるから。

今度は俺が人魚姫になるのだ。愛する王子を殺すことなど出来ないから。だから何も言わずに、黙ったまま、これからを生きていく。トリの隣で。ずっとずっと。

だから最後にもう一度俺の名前を呼んでください。そのちっぽけな幸福で、きっと自分は笑い続けることが出来る。これから先の何十年を耐えることが出来る。

顔を洗って水滴をタオルで祓って。テーブルの上に放置しておいた携帯電話を取り上げた。指先が一瞬だけ迷う。直後、リダイヤルを押した。数度のコール音。もしかして、出られない状況なのかと顔を曇らせた途端、昔から聞きなじんだ声が耳に響いた。

「あ、トリ。今大丈夫?」
「ああ、平気だが。どうかしたのか?吉野」

良かった。自分の声が震えていなくて。

「あのさ、突然なんだけど。俺の下の名前、呼んでくれない?」
「どうして」
「漫画の参考にしたいから。こんな意味の分からないこと、頼めるのお前くらいしかいないだろ?」

一之瀬の気配はない。タイミングよく離れていたのだろうか?声に出さずに安堵した。もしここで彼女の声を聞こうものなら、臆病者の自分のことだ。やっぱりいいや、と言い出して電話を切ったに違いないから。

「トリ、お願い」

自分の声を忘れてしまっても、お前の声は忘れたくないから。それを忘れないために。

「…千秋」

ためらいの後に出された言葉。その優しい声が体中に沁み渡る。胸の底から湧き出るものに満たされて、また目尻に涙が浮かんだ。駄目だ、ここで泣いてはいけない。


「ありがとう、トリ。旅行の邪魔して悪かったな。楽しんできて」
「随分とお前らしくない言葉だな。いつもだったら、旅行に行くなんてずるいと喚くくせに」
「…なんだろな。ただ、お前のことが好きだから。幸せになって欲しいな、って思っただけ」



…ごめんね、五年前にこの台詞が言えなくて。



再度涙が溢れそうになったので、早々に電話を切った。俺ってこんなに涙もろい人間だっけ?二十幾年になって初めて見知らぬ自分を発見。見つけたと同時に、一番に切り捨てなくてはならないもの。本当は一番切り捨ててはいけなかったもの。

目の前に広がる原稿用紙。人魚姫が最後に幸せな恋を叶える夢物語。びりびりと切り裂いて破り捨てた。これから俺が描くべきは、そんなものじゃない。王子様と少女が幸せな結末を迎える未来。言葉を失くした人魚が、緩やかにそれを見守る話。



今はまだ、描けそうもない。



心の中にぽっかりと出来た虚無感に必死に耐えながら、ベッドの上でうずくまる。ああ、痛い、痛い、胸が痛い。室内は全くの無音で、それがさらに自分の孤独感に追いうちをかける。まるで、水の中にいるみたい。海に溺れる人魚みたく、このまま泡になって消えてしまえたらどんなに楽だったろう。でも、それは出来ない。トリの声を奪った俺は、その罪を彼の隣で一生をかけて償わなくてはならないから。

また胸がずきずきと痛み始めたところで、携帯がけたたましく鳴った。重苦しい雰囲気がその瞬間に消え去って、少し胸に安堵を覚えて。けれど待受画面でその電話相手が誰かが判明した刹那、ぎくりと体が強張った。一ノ瀬だった。

一ノ瀬の声、今は冷静に聞くことが出来るだろうか?迷って、すぐに電話に出た。彼女はトリと一緒にいるのだから、先ほど彼が電話をしたことを伝えたかもしれない。数分もしないうちに不在になることはあからさまに怪しいし。何よりまた後で電話をかけ直す勇気もない。

「もしもし?」

冷静に冷静に。何を言われてもいつも通りの自分として、彼女と会話をしよう。心に決めて、でもその指先は気味が悪いくらいに冷たかった。胸が脈打って、異様な緊張の中、それでも覚悟を決めた。何があっても、絶対に泣くものかと自分に言い聞かせて。




だというのに、泣いていたのは一ノ瀬の方だった。



電話越しにすすり泣く声が聞こえる。時折嗚咽のような悲鳴が、小さく耳に届いた。様子がおかしい、と分かって、一ノ瀬さん、トリは?そこにいるんだろ?具合が悪いなら、すぐにトリを呼んで、それから、

「…羽鳥くんは、今、千秋の家に向かってるわ…」
「…へ?」


思わず、間抜けな声が漏れた。


一ノ瀬は、一体何を言っている?





「え?何で?だって一ノ瀬さんとトリで、一緒に旅行に行ったんだろ?で、何でトリが俺の部屋に来るの?」
「…そんなの、千秋に会いたいからに決まってるでしょ?」
「そういうことじゃなくて、だから、どうしてトリが一ノ瀬さんを一人にしてるの?…だって、トリと一ノ瀬って、お互いに好きなんだろ?恋人なのに…何で?」
「…何でもかんでも私にばっかり聞かないでよ。ああ、でも良いわ。答えてあげる。私は羽鳥くんのことは好きだけれど。でもね、それ以上に、ずっともっと千秋が好きよ!」

彼女の言葉にますます混乱する。言葉の意味の理解は出来ていても、それに思考回路が追いつかない。考えれば考えるほど訳が分からなくなって、呆然としていると、電話口でまたもや彼女が急き立てた。

「鈍感なのもいい加減にしなさい!自分の気持ちが分かったなら正直になんなさい!千秋の馬鹿!大好き!ここまでお膳立てしてあげたんだから、幸せにならなきゃ許さないんだから!本当に大好き千秋!今までありがとう!…ばいばい、千秋。羽鳥くんとずっと幸せにね!」


最期の言葉を言い切った瞬間、うわーん、と一ノ瀬が声をあげて泣き始めた。状況が分からずにおろおろとしているうちに、その電話が切られる。頭が真っ白になりながら、彼女の言葉が耳元で幾度となく反芻する。そうして、言葉が言葉としてようやく理解に至ったと同時に、玄関のドアが大きく開かれた。


一ノ瀬の宣言通り、その正体は紛れもなくトリだった。





×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -