実家から送られてきた野菜を両手に抱えて、朝早くからトリの部屋へと突撃した。アポイントもなしの来訪に、いつも通りに羽鳥はその眉に皺を作る。

「俺、今から出かける用事があるんだが」
「いーじゃん、どうせ直ぐに終わることなんだし」

その用事が何であるかを知っていた、なんて勿論口にはしない。紙袋に小分けにした野菜を無造作に部屋の隅へと置き去りにし、はい、と羽鳥に小さな紙切れを手渡した。これは何だ、というように訝しむ彼に、中を確認するように促す。折りたたまれたそれを開いた瞬間、羽鳥の表情がいっそう険しくなった。そのうち、トリの額には濃い皺が刻まれるに違いない。

「吉野、お前」
「うん、そう。おみやげ希望リスト。おすそ分けのお礼として楽しみにしてるから」
「おすそ分け?押し付けの間違いじゃないのか?」
「人聞きの悪いこと言うなよな」
「旅行に行く直前に野菜を渡されても、結局は傷むだけだろ」
「俺の部屋に置いてても、結局傷むのは同じだろ。あ、あとお前がいない間の留守番代もそれに入っているから」

これ以上何を言っても無駄だと判断したらしい羽鳥が、大きな嘆息を漏らす。へらへらとした笑い顔を作る一方で、視界に大きな旅行バッグを捕らえて、つきりと胸が痛んだ。

「俺寝不足だから、もう帰って寝るわ。それ、忘れたら承知しないからな。じゃあ、行ってらっしゃい」

返事すら待たずに吐き捨てるように言い切り、直ぐに彼の部屋を後にした。途中、吉野と小さく呼ぶ声が聞こえたけれど、それすら振り返らずに。トリがどんな表情で、どんなふうにそう口にしたのか俺は知る由もない。けれど羽鳥から見えた自分は、屈託のない無邪気な笑顔を浮かべていたはずだ。きっとそうだ。



微笑が悲しみで歪まない様。好きな人の門出を、笑って送り出せる様。


俺は、うまく笑えていたのかな。



胸に熱いものが込み上げてくる。泣くな、と言い聞かせた。唇を噛み締めながら、目頭を掌で押える。もう泣かないと決めたのだ。俺が羽鳥に求めたように、今の羽鳥が俺を親友として求めているのなら。彼が俺を選ぶことのない最後の瞬間に立ち会う日まで、その時まで。その役割を演じ続けようと決めたのだから。親友は、他の女性を選んだ友人の為には、泣かない。泣いては、いけないから。

ばたりとベッドの上に倒れこんだ。うまく言葉を繋げるように、ちゃんと彼の前で笑う為に。昨晩死ぬほど練習したのだ。ほとんど睡眠をとっていなかった体に、急激に眠気が襲い掛かる。瞼が重い。眠りたくないな、眠ったら、どうせ人魚姫の悪夢を見るだけだから。考えて、自嘲した。今の現実以上に勝る悪夢が何処にある?


薄れゆく意識は、そこで途切れた。


+++

金色の髪が、ゆらゆらと揺れていた。風になびいたそれだと錯覚したのは一瞬で、流れる気泡を目の前に、私は水の中にいるのだと知った。浮かぶ空気とは対象的に、ぐんぐんと沈みゆく体。苦しくはなかった。ただ、酷く悲しかった。煌く光は遥か彼方の水面に。最初から届くはずのなかった世界。傷つくと分かっていても、最初の一歩を踏み出したのはきっと私。

こぼれる雫は海と混じり、全ての水は私の涙。口にすることが出来なかった想い。今、この波に乗せて、貴方の為にひたすらに謡うよ。もし、願いが叶うのなら。どうか私を思い出してください。長い歳月のほんのひとときで良いのです。私があなたの傍にいて、私があなたを愛していたことを。どうか、どうかお願いです。私を忘れないでいてください。


好きです、好きです、心から。好きです、好きです、あなたのことが。


私には伝える術がありません。語る言葉を持ちません。


けれど、私は大好きです。私はあなたが大好きです。


この恋が例え叶わなくてもいい。あなたが他の誰かの手をとってもいい。ただ、ただ伝えたかった。あなたに「好き」と告げたかった。


+++

いつも通りの悪い夢だった。王子の命を守るために自らの生を投げ捨てた、悲しい悲しい人魚の夢。彼女の最後。いつも通りの酷い悪夢だった。けれど一つだけ違ったのは、いつもは波に掻き消されて聞こえなかった彼女の声。それが耳に響いたこと。うっすらと開く睫が濡れていた。重力に流されるように、瞳から涙があふれて止まらなかった。


ああ、なんだ、俺。本当に何もかもが分かっていなかった。

すっと皆が教えてくれていたのに、ずっと昔から知っていた物語だったのに。俺は人魚姫の気持ちなど一切分かっていなかったのだ。彼女がどうして自分の声を犠牲にしてまで、王子様に会いに行ったのか。何が彼女をそうさせたのか。分かっているふりをして、これっぽっちも分かっちゃいなかったのだ。


私は王子様の命の恩人です。だから、私と結婚してください。


人魚姫がもし語ることが出来たなら。告げたかったものは、そんな言葉じゃない。恩を着せてまで得たものが「愛」じゃないこと。多分彼女は知っていた。

人魚姫はただ、王子様の傍にいたかっただけ。いつか王子様に「好き」と伝えたかった。ただ、それだけ。そんなちっぽけな奇跡を、馬鹿みたいに夢見ていただけ。

それだけのことに、人魚姫は彼女の全てを投げ捨てた。王子様の為に、今まで共に生きた大事な尾も、生まれ育った母なる海も。美しい歌を奏でるその声も、全部捨てた。ただ、王子様に会いたいという理由で。それだけの理由が、彼女に全部を投げさせる全てだった。

語る言葉を持たない人魚。語る言葉を持つ王子の傍ら。何も言葉を返せずに、一番に伝えたい言葉も告げることもできずに。いつしか、王子は他の少女を選んで。人魚姫はただ、最初から分かっていた運命を、変えられなかったと嘆くだけ。悔しかっただろう。苦しかっただろう。幸福に満ち溢れた二人の姿。心を裂きながら見守って。それでも祝福の中、掌をたたくことは止めなかったのだろう。それが、それだけが彼女の想いを伝えるたった一つの手段だから。おめでとう、と表す唯一の。

王子はそんな人魚姫の想いを本当に知らなかったのだろうか?否、本当は知っていたはずだ。愛しげに見つめるその瞳、声をかければ穏やかに微笑むその姿。触れる掌はいつだって温かくて。自分の何もかもを受け止めて包み込んでくれるような。そんな愛に気づかないはずがない。本当は分かっていたくせに、ずっと知らないふりをしていたのだ。人魚の気持ちに応えることは出来ないけれど、その無償の愛は手放せない。自分は他の誰かと結婚するけれど、人魚姫にはずっと傍にいて欲しい。ずっと愛していて欲しい。



その傲慢さが、美しい恋物語を“悲劇”にした。



ああ、何だ、今頃気づいた。俺は今までずっとずっと。この王子と同じことを。こんなにも残酷なことを、トリにし続けていたのか。



トリは俺の名前を呼ばなくなったのではない。呼べなくなっただけなのだ。



もしも、五年前。トリが俺に向かって「好きだ」という言葉を告げていたのなら。俺はどう答えていただろう。「何の冗談を言っているんだ」とか「お前は俺の親友だろう」とか。そんな台詞があったのかもしれない。けれどきっとトリは、俺がどんな台詞を言ったとしてもそれを無条件に受け入れるつもりだった。たとえトリ自身が心から望む答えではなくても、俺が出した結論なら、全てをそのままに享受するはずだった。


トリがいつから俺のことを好きだったか、なんてことは知らない。ただ、トリは、あの瞬間に、あの一時に、今までも想いの全てを籠めて、俺に伝えようとしていたのだ。


それなのに、俺は。



それを全て「無かった」ことにした。



ずっとずっとトリが心に抱き続けていた想いも、何もかも。あの時間だけ切り取って、全て無かったことにした。彼の心を、全部粉々に打ち砕いた。


ああ、なんてことをしてしまったのだろう。どうしてこんな、取り返しのつかないことをしでかしてしまったのだろう。トリは、何も、なあんにも、俺からの見返りが欲しかったわけじゃないのに。ただ、純粋に。俺からの答えが欲しかっただけなのに。


あの瞬間から、トリは何も言わなくなってしまった。何も言えなくなってしまった。


語る言葉を、失くしてしまった。


好きだと告げることすら叶わない。ただ一途に想うことしか出来ない。期待することも出来ない。傷つくことしか出来ない。愛をひたすらに捧げて、言いたいことを何も言えずに。ただ、黙って俺の傍に黙って居続けるしかない。俺はなんて、なんて残酷なことをしてしまったのだろう。抱えていた想いすら、吐き出すことを許さずに。自分の理想をずっとずっとトリに押し付けていた。


責めてくれれば良かったのに。俺の言葉を勝手に「無かった」ことにするなと。怒ってくれても良かったのに。お前が俺を好きだと知っていたからこそ、甘えていたその罪に。もっともっと傷つけてくれて良かったのに。今まで俺が無意識のうちに、お前を苦しめていた分だけ。でも、いくら俺がそう言ったとしても、トリはきっと首を振るのだ。勝手にお前を好きなった俺が悪い、と。自分のことを好きになってくれた人を傷つけた自分の方が、もっとずっと悪いのに。責めることをせずに、ただ静かに微笑むだけなのだ。


だって、トリは。そういう優しい男なのだ。


ぽろぽろと涙が溢れた。もう泣かないと決めたばかりなのに。ううん、違う。だってこれは俺の涙じゃない。流れる雫は、きっとトリが今までずっと閉じ込めてきた涙。彼の痛み、彼の苦しみ。想いの、すべて。


ごめんね、トリ。ごめんなさい。昔のお前と同じ立場になって、今初めて分かったの。愛する人を目の前に。何も言えないことが、こんなに苦しいことだったなんて。今初めて知ったの。愛する人が他の人を選ぶ恐怖に、お前がどれだけ怯えて、その悲しみを抱えてきたのか。全部全部分かったの。もう何もかもが、遅いけれど。


暮らす日々の中、お前は俺が好きなんだろ、という傲慢な心で彼に接してはいなかっただろうか?そんな俺の行為は、どんなにトリを傷つけていたのだろう。叶わぬ恋だと知っていても、それでも彼はいつも笑っていて。当たり前のようにずっと傍にいてくれたのに。


一番近くにいたのに。その心を分かってあげられるのは、俺しかいなかったはずなのに。


ごめんね、トリ。許して、トリ。


お前はどれだけ辛かっただろう。どれだけ苦しかったことだろう。



魔女なんて、いやしない。



お前の声



奪ったのは、この俺だ。









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