「最近、絵梨ちゃんが構ってくれなくてつまんない」

白い指先を滑らかに動かしながら、隣にいる杏が言った。昼休みのことだった。ざっかざっかとスケッチブックに鉛筆で何かを描く彼女の傍らで、菓子パンに噛り付く。飲食を怠ったせいで倒れたという出来事は昨日のことだ。さすがに何度も何度も同じことを繰り返すわけにはいかない。せめて自分の食事くらいは、と考えて大学内の購買所に向かったところで、ばったり杏と出くわした。

お互いに一人ご飯だ、ということが判明すると、一緒に昼食を食べようと言い出したのは彼女の方だった。その申し出は実に有難かった。一人で過ごす時間は好きだ。別に傍に他人がいるのが嫌い、といっているわけではないけれど。緩やかに好きなように自分の自由な時間を謳歌して、自らの心を解放する時間が、俺にとっては重要で、必要だった。今は、出来ないこと。だって一人になってしまえば、何か心の奥底からとんでもないものが湧き出てくるような恐怖にかられてしまうから。

空が青い。透き通る水色のパレットを絞り出した、絵の具みたいな色だった。構内の空いたベンチに腰をかけて、それぞれに空腹を満たした。午後の講義までにはまだ時間がある。会話も途切れ途切れになったとき、がさごそと杏がスケッチブックを取り出しては何かを描き始め、今に至る。 

構ってくれないのは、多分一之瀬がトリと一緒にいるから。

思い当たる案はあった。でもそれを口には出せなかった。それを口に出して、彼女が納得してしまえば、真実はもしかしたら他所にあるのかもしれないのに、それが本当になってしまいそうだったから。それが怖かったから。

目の前を慌しく荷物をもった学生が通りすぎた。次から次へと同じように本だの机だの用具を手にした学生もやってくる。なんだなんだ、と視線をそちらに傾けると、その様子に気づいた彼女が言った。

「あのサークル棟。改装しようと業者さんが中を見たら、かなり痛んでいたらしくて。今度取り壊して新しいと棟をつくるみたい」
「…、へえ、そうなんだ」
「だから今私達が使ってる部室の方に、物を移動させてるって、友達から聞いた」

トリが所属している「読書愛好会」もその棟を使うサークルの一つだった。ちなみに、当大学にはサークル棟と呼ばれるものが二、三存在する。近年新しく出来たものは大人数を収容する広さを持つため、百人単位の構成員を持つ当サークルのような団体にあてがわれる。一方弱小と呼ばれるくらいに会員数が少ないサークルには、古ぼけた旧舘が。

「なんだか、寂しいね」


手を動かすことを止めた杏が、絞り出すような小さな声で言った。ひゅう、と一際大きな風が吹いて、膝の上に置かれたスケッチブックがばらばらと捲られていく。真っ赤なリンゴ。澄み渡る青空。大輪の花々に、果てのない海。そしておそらく今描きあげた鉛筆書きの最後のページが現れる。二人の人間が向き合って何かを指し示した、奇妙な構図。

「あの棟が、壊されてしまうことが?」
「作る壁や床や廊下、窓に扉に、その空気に会えなくなることが、寂しい」

一ノ瀬が彼女のことをよく「不思議な子」と普段からよく称している理由が、今なんとなく分かった気がする。青いリンゴを目の前にして、赤いリンゴを書くような少女だ。そのままの有様をそのままに描くことをしないひと。物にだって心はあるのに、というのが口癖の、他人とは違う何かを見ている、見えている、見ることが出来る限られた人間の、一人。

そういった才能を持っていたほうが、きっと少女漫画を描くには向いているのだろう。ただ本人は単純に絵を描くことが好きなので、そちらの方向へ進もうとは一切考えていないらしいが。何もないものから、何かを見出し、それを描く。一朝一夕で手に入る能力ではにないし、いくらお金を貢いだとしても簡単に手に入る才能ではない。

なんだろうな。本当に、なにもかもがうまくいかない。

描き続けているはずの課題だって、もう今は一つのコマですら進んでいない。あんまりにも色々と考えすぎて、最近は人魚姫の悪夢まで何度も見るようになってしまった。示された彼女との微妙な才能の違い。理解して、またさらに落ち込んで。

そうして、トリのことも。

付き合っている恋人を自分の部屋に入れるなんてことは、俄然として普通のことだ。なのに今でもあの光景を頭に思い浮かべると、辛酸を舐めたような顔を作ってしまう。本当にうまくいかない。なにもかもが。いや、そもそも今迄が何もかもがうまくいきすぎていたのだろうか?考えて、分からなくなって、大きくため息をつく。


「ねえ、千秋ちゃん。課題、うまくいってないの?」
「…あー、うん。なかなかね。人魚姫の気持ちっていうのが、あんまりよく分からなくて」
「千秋ちゃんは、もし人魚姫が口を利けたら、物語の最後はどうなっていたと思う?」

ぱたん、と風に流されていたスケッチブックを鞄の中へと戻して、彼女はぱんぱんとスカートの汚れを振り払うように掌で叩いた。もう時間ね、というように流れる髪をかきあげながら。それでもその先の答えを求める自分の視線に気づいたのか、彼女は少しだけ悲しそうな表情を浮かべて笑って。

「物語の中だと、王子様の命を助けたと言い張る少女と結婚しちゃうけど。人魚姫がその少女と同じことを言えたら、姫は王子様と結婚できたと思う?あなたを助けたのはこの私です。私はあなたの命の恩人です。だから王子様、私を好きになってください。あなたは私を好きになって当然です。結婚するのが当たり前です。それを人魚姫が言えたとして、王子様を手にいれることができたかしら?そうやって、得たものが、」



本当に、愛かしら?




Y→


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -