待てど青紫‐3


 何とも言えない静寂が四人の間に横たわったが、イルクシュリが一度大きく手を打ち鳴らした途端、最低限の音が戻って来る。閥が悪そうに頬をかくと、エノウはユキトの頭を撫でた。もう行くんやな、寂しい。率直な言葉に胸が引き絞られる。

「サンザもいい勉強になったネ? さっ、名残惜しい所悪いけど、そろそろ出て貰うヨ」

 別れまでの距離を感じ取ったのか、エノウはユキトへ二輪の薔薇を手渡して来た。棘は全て抜かれ、美しい紋様の白紙に包まれたそれは、朝露を震わせ青紫に輝く。間違いなく、あのシャーヴェイ・ローズだ。

「えっ、これ……」
「夫人から預かった。ユキトちゃんとサンザへやって。で、もう片方は俺から」

 確認しようとして、すぐに止めた。エノウの表情を見れば、この花が彼から教わった通りの意味で用意されたのだと、嫌でも伝わって来る。
 離れ行く人へ捧げる、愛情と感謝の象徴。距離が開こうとも、私達はーー
 馬車の車輪が、一度歪な音を立て、後は淀みなく回り始める。馬はゆっくりと歩を進めた。嘶きに驚いた鳥が飛び立ち、朝日の中へ消えて行く。

「本当に、巻き込んでばっかりでごめんね。エノウがいてくれてよかった」
「おおきに。そう言って貰えたら嬉しいわ。なあ、ユキトちゃんとサンザの絵、描いてもえぇ? ほんま練習やし思い出しながらになるから、ちゃんとした物には出来んのやけど、」

 間髪入れず、ユキトは承諾した。サンザが何と答えたのか上手く聞き取れなかったが、悪い返事ではなかったのだろう。エノウは子供のように破顔し、速度を上げる馬車に合わせ走り始めた。

「なんとなーく只者やないの分かったけど! とにかく、気ぃ付けてな!」
「ありがとう、エノウも、元気でね! ーーまた会える?」
「会える会える、イルクシュリさんに手紙預けるわ! サンザももうちょっと頭柔らかくなー!」
「一言多い」

 車輪と反比例するように、エノウは速度を落としていった。
 緑の上着が微風に靡く。静まり返った薔薇の屋敷が見えた。朝日が差し込む窓の向こうに、微笑むコリンスが、一瞬だけ映ったように思う。浅はかな望みが見せた、一瞬の幻影かもしれない。それでも、確かに。

「あのな、夫人に、家族の絵依頼されてて、ーー息子さんにシャーヴェイ・ローズ持たせて欲しいって! さっき言われた、せやから、きっと、大丈夫やで!」

 不思議な出会いだった。たまたま同じ馬車に乗り合わせて、たまたま同じ人間から仕事を依頼されて。エノウにとっては不運としか言い様のない、数奇な歯車の噛み合わせで、黒獣の討伐にまで同行させてしまった。
 お互いがこうやって、微かな希望を頼りに、五体満足のまま別れることが出来る。巡り合わせ以上の奇跡を噛み締め、ユキトはあらん限りの力で手を振った。
 さようなら。必死の叫びが、轍を刻む馬車の声に、かき消される。





 四日にも満たない付き合いだ。それでも、黒獣の騒動と共に刻まれた彼等の記憶は、光を弾く草木の色より鮮明に残っている。
 馬車がずっとずっと遠くまで進み、豆粒程の大きさになってから、ようやくエノウは右手を下ろした。まだユキトの声が響いているようで、落ち着かない。

「君には随分迷惑かけちゃったネ」

 背後からの声に、肩が跳ね上がる。てっきり馬車に乗ったと思っていたイルクシュリは、当然のようにそこに佇んでいた。一緒に行かないのか。口出しする気はないが、軍の関係者が残るかと思うと、少しだけ気が重い。

「ありがとうネ。ああそうだ怪我の具合もちゃんと教えて、黒獣に関わった物なら保証するかラ」
「いえ、俺が勝手に関わったことですし……」
「イヤイヤ。残念なことに、勝手にやった・じゃ済ませられない事情が大人にはあるんだよネー」

 右手が痛む。指先、その中でも薄っぺらい爪が、一際熱を帯びた。脈動する血液の感覚が、皮膚を突き破るように強くなる。表情が消えたのは無意識の内だった。小首を傾げるイルクシュリは、当て付けかと思う程綺麗な笑顔を浮かべていると言うのに。
 この顔を知っている。商談の際、何度も見て来た。交渉に交渉を重ね、最後の決定打を打ち込もうとした時、逆にこちらの隙を抉られる。その一撃の深さで、敵う相手かどうか本能的に悟るのだ。

「エノウ・アトラーくん。聞きたいことが沢山あるので、付き合って貰えるかナ?」

 幾ら虚勢を張ろうとも。
 予期した敗北は、易々と覆ってはくれない。



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